正真正銘のボスとは? 日本では「ボス感」だけで勝負し、暴走する指揮官も…【小宮良之の日本サッカー兵法書】

2021年12月17日 小宮良之

「ボス感」だけで勝負している監督は厄介な存在になり果てる

リーダーの風格はあるのにエゴを感じさせなかったライカールト。(C)Getty Images

「ボス感がある」

 日本サッカーでは監督を評価するとき、そうした表現がある。

 チームを束ねるリーダーシップを指しているのだろう。モノ言わずとも、空気を引き締め、戦う集中力を漲らせられる。一言の力が強く、統率力に長けている。横浜F・マリノスからセルチックへ鞍替えしたアンジェ・ポステコグルー監督など、その点の名将と言えるタイプだった。

 しかし「ボス感」は曖昧なだけに、不確実、不正確に使われることもしばしばである。中には、「ボス感」を盾にして、率いるクラブで何の成果も残せていないのに、次の職にありついて再びチームを腐らせる例もある。「ボス感」のおかげで仕事を続けられるというのか。

 選手だけでなく、地元メディアも「ボス感」に恐れや怯えを覚えてしまう。実際、ボスの方から得体のしれないプレッシャーがあったりする。ボスはボス感を守るために動かざるを得ない。そうなると、ファン・サポーターにはさらに実体化が隠れて、「ボス感」が禁忌的、宗教的なものになる。

 これは最悪のスパイラルだ。
 
 ただ偽りの「ボス感」も、始まりは本物だったことが多い。兄貴肌で、度量の大きさを感じさせ、頼りになる。選手時代の経歴が華やかだったりすると、「ボス感」は増す。一体となって勝負を制した時、封建的な体制が確立し、「監督を男にしたい」と選手たちに慕われ、監督も選手たちを慈しむように扱い、運命共同体となる瞬間があるのだ。
 
 そこでベンチに座る監督の姿に漂うのは、まさに「ボス感」だろう。
 
 しかし、物事がうまくいかなくなった時、「ボス感」だけで勝負している監督は厄介な存在になり果てる。疑心暗鬼になって選手の言動を監視し、それを嗅ぎつけたメディアをけん制する。クラブを自分固有の集団と勘違いし、その正当化をアピールするだけに奔走し、現場で亀裂を走らせる。「ボス感」があたり構わず暴走するのだ。

 個人的にインタビュー取材した監督では、FCバルセロナ時代のフランク・ライカールト監督が、一番「ボス感」があった。

 ライカールトは正真正銘、本物のボスで言葉に力を感じさせた。選手から慕われていたのは、勝利を自分の手柄にしなかった点にあるだろうか。リオネル・メッシなど若手を抜擢したが、ベテランも大事にし、選手を心からかわいがっていた。彼の楽しみは煙草をうまそうに吸うことで、リーダーの風格はあるのにエゴを感じさせなかった。

 それが選手を導き、ロナウジーニョを中心としたファンタジーを作り出した。

「気持ちで戦えていない、やる気が見えない」
 
 選手に対し、そんなことをメディアに向かって言う監督は、すでに統率力も束ねる力も、自ら放棄している。気持ちややる気を引き出すのがボスで、「だから結果が出ません」というのは落第だろう。それで「ボス感」は噴飯もの。
 
 クラブは、「ボス感」を見極める目を持つことが必要だ。
 
文●小宮良之

【著者プロフィール】
こみや・よしゆき/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。2001年にバルセロナへ渡りジャーナリストに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写する。『選ばれし者への挑戦状 誇り高きフットボール奇論』、『FUTBOL TEATRO ラ・リーガ劇場』(いずれも東邦出版)など多数の書籍を出版。2018年3月に『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューを果たし、2020年12月には新作『氷上のフェニックス』が上梓された。
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