「リネカーがいたことしか知らなかった」“ピクシー”ストイコビッチが日本行きを決断した理由を告白!「忍耐がない中国では…」

2021年02月18日 サッカーダイジェストWeb編集部

「イングランドからオファーがあったが…」

指揮官として戻ってきた名古屋に初のリーグタイトルをもたらしたストイコビッチ。(C)SOCCER DIGEST

 現役生活を日本で終え、指導者としてもタイトルを獲得し、中国でも指揮を執った。"ピクシー"の愛称で親しまれた元ユーゴスラビア代表のドラガン・ストイコビッチは、アジアとの縁が深い。

 レッドスターやマルセイユ、ワールドカップで名を馳せたストイコビッチは、1994年から2001年まで名古屋グランパスエイトでプレー。引退後、2008年に指揮官として名古屋に戻り、2年後にクラブ初となるJ1優勝を遂げた。2013年に退任したストイコビッチは、2年後に広州富力の指揮官に就任。5シーズンにわたって采配を振るった。

 2月17日、イタリアのウェブサイト『TUTTOmercatoWEB』のインタビューで、ストイコビッチはアジアでの経験に言及した。日本に行くことを決めた経緯を、「マルセイユが不正事件で降格となり、名古屋からオファーを受けた」と振り返っている。

「知っていたのは、ガリー・リネカーがプレーしていたということだけだったよ。当時は多くのカンピオーネが日本に行っていた。(サルバトーレ・)スキラッチ、ドゥンガ、(ピエール・)リトバルスキーなどね。それで思った。『どうしてダメなんだ?』とね。そしてこの経験にトライすることを決めた。結局、7年いたよ」

 ストイコビッチは「ユーゴスラビア連盟やレッドスターの会長を経て、名古屋に戻った」と続けた。

「監督としてもさらに6年を過ごした。われわれは素晴らしいことをしたんだ。2010年にはクラブにとって初のリーグ優勝を実現した。誰も信じていなかったが、わたしは成し遂げたんだ」

【動画】ピクシーがJリーグで披露した「伝説のドリブル」はこちら
 欧州が恋しくなかったか問われると、ストイコビッチは「名古屋の次にイングランドからオファーがあったが、金銭面で合意に至らなかったんだ」と答えている。

「そして広州からのオファーがあった。5年やることになったよ。わたしは仕事を始めると、プロジェクトを最後まで全うすることを喜ぶ人間なんだ。それに、アジアの文化が好きなんだよ。中国でも仕事場が大好きだった。とても幸せだったよ。変える理由がなかった。中国では監督への忍耐があまりなく、簡単に解任される。そこでわたしは5年続けたんだ」

 現在は「実質的にバカンス中」というストイコビッチは、次にどのような冒険に挑むのだろうか。

構成●ワールドサッカーダイジェスト編集部

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