ハリルホジッチ日本代表新監督の人物像――頭脳明晰な激情家

2015年03月12日 ウラジミール・ノバク

母は将来、エンジニアになってもらいたいと考えていた。

理工系の高校に進学し、学業とサッカーを両立。「母は私が学業を疎かにすることを決して許さなかった」という。 (C)Reuters/AFLO

 日本代表監督への就任が正式に決定したヴァヒド・ハリルホジッチ。このボスニア・ヘルツェゴビナ人指揮官は曲がりくねった長い道のりを経て、現在の地位を手にした。
 
 ハリルホジッチは1952年10月15日に、ヘルツェゴビナ(当時はユーゴスラビア)のヤブラニツァにある人口5000人ほどの小さな町で生まれ、裕福ではなかったが、5人の兄弟のいる大家族のなかでのびのびと育っていった。家の近くにグラウンドがあったため、幼少期からサッカーに親しむ一方、学校では常に優秀な成績を収めていた。
 
 地元のトゥルビナというクラブでプレーしていたが、彼の母はスポーツよりも学業を優先し、将来的にはエンジニアになってもらいたいと考えていたそうだ。実際、高校はモスタールにある理工系の学校を選択する。
 
 ちょうどその頃、ベレス・モスタールで頭角を現わしていた兄のサレムが、ハリルにも同じクラブに入るよう説得し、ユースチームでトレーニングに励むようになる。
 
 ただし、引き続き学業でもトップを維持していたため、本格的にサッカーの道に進んだのは18歳になってから。それ故に彼のプロのキャリアは、他の選手より比較的遅れて始まったのである。
 
「母は私が学業を疎かにすることを決して許さなかった」と、ハリルホジッチは振り返る。
 
「23歳で初めてユーゴスラビア代表に選出された時も、『勉強はどうするのか』と訊いてきたほどさ」
 
 おそらくエンジニアの道を選んだとしても、ひとかどの人物になっていたはずだが、有能なストライカーだった彼がサッカーを選択したことは、ベレスのファンを喜ばせた。
 
 72年から81年までトップチームに所属したハリルホジッチの出場試合数は400に迫り、250以上のゴールを記録(リーグ戦では207試合・103得点)。81年にはユーゴスラブカップ決勝で、名門ジェレズニチャル・サラエボを自らの2ゴールで下し、クラブに史上初のタイトルをもたしている。

次ページ優勝トロフィーを故郷の人々に見せるために――。

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