【三浦泰年の情熱地泰】“久保くん”のビジャレアル移籍に思うこと。周囲が期待をかけるのは勝手だが…

2020年08月22日 サッカーダイジェストWeb編集部

海外で活躍することの難しさ。Jリーグでも成功できなかった名手も

ビジャレアルへのレンタル移籍が決まった久保。さらなるステップアップに期待したい。(C) Getty Images

 イタリア・セリエAの門をカズが開いた。

 Jリーグ発足から2年後、カズの思い切った移籍によりヨーロッパも近くなった。

 中田英寿の活躍でさらに近くなり、小野伸二がオランダ・フェイエノールトで日本人選手は必要な戦力だと認めさせた。

 本田圭佑と香川真司は、日本人選手がヨーロッパでチームの中心になれることを証明した。

 そして久保くんがバルサから戻り、Jリーグでプレーし、レアル・マドリーに入団し、マジョルカからビジャレアルへと移籍した。

 違和感なく日本人選手が日本とヨーロッパを行き来する時代になり、いまやヨーロッパを目指すことは、ごく自然な流れとなっている。

 一方、Jリーグ開幕前年の92年、前哨戦となるナビスコカップに、ガリー・リネカー(元イングランド代表)がワールドカップ得点王という名声を引っ提げて名古屋グランパスエイト(当時)に現われた。

 ブラジルからはジーコが鹿島アントラーズでプレーし、ブラジル人選手をはじめとする海外の有力選手が日本でのプレーを選択するきっかけとなった。

 そして、ストイコビッチがヨーロッパ選手の存在を確実なモノにした。ブラジルからも代表を狙える選手が数多く日本の道を選ぶようになった。

 当時、僕は清水エスパルスの選手であったが、やはり多くのタレントがチームにやってきた。チームメイトのロナウドンが94年ワールドカップに出場するブラジル代表に呼ばれ、チームを離れた。

 その後、イタリア代表のマッサーロが移籍してチームに加わり、やはりチームメイトだったジャウミーニャ(清水)はJリーグでプレーした後、ブラジル代表に招聘された。

 セザール・サンパイオは僕がブラジルにサッカー留学していたサントスでのチームメイトであり、当時16歳。2歳飛び級だった。その彼も日本でプレー(横浜フリューゲルスなど)し、その後はブラジル代表でフランス・ワールドカップに出場。ドゥンガとともにブラジル代表の中心となった。

 一番一緒にやっていてやりやすかったビスマルクは、ブラジル代表を諦めて日本行きを決めたと冗談半分で昨年、サンパウロで行なわれた領事館のイベント、トークショーで話していた。他にも数多くのブラジル代表経験選手が存在し活躍した。

 先日、スペイン語でインタビューに答える久保くんを見て「より近づいたヨーロッパ」を改めて感じた。

 久保くんのビジャレアルへの移籍は誰もが期待している。ただサッカーはひとりで結果を出す(出せる)スポーツではない。

 久保くんに期待するのは勝手だか、彼ひとりの力ではどうにもならない。サッカーはグループでやるものだ。

 だからと言って個人が弱くて良いわけではない。強い個がグループになってまとまり、機能してこそ、より強いグループになる。世の中の仕組みと同じだと思う。

 日本のスポーツ文化の歴史は個人の弱さをチームワーク、まとまりでカバーする。個人技のある選手より、協調性、チームワークを重んじる傾向にあった。

 しかし今の時代は強い個は大前提である。プロの世界であれば当然、当たり前のことだ。
 

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