【J指揮官の肖像】群馬・服部浩紀監督|『アジアの虎』が地元凱旋「“群馬の虎”育てる!」

2015年02月24日 伊藤寿学

ライセンス取得の危機にあった地元クラブに恩返しをしたかった。

今季から群馬の指揮を執る服部新監督。地元の英雄として、サポーターからの期待も大きい。(C) SOCCER DIGEST

 群馬が2015シーズンの指揮官に抜擢したのは、地元出身の英雄・服部浩紀だった。かつて『アジアの虎』と呼ばれ、横浜フリューゲルスなどで活躍した男が、12年ぶりにJリーグの舞台へと戻ってきたのだ。
 
 昨年11月、就任会見の場に立った服部新監督は「地元Jクラブからオファーをもらい、非常に光栄。サッカー人生のすべてを賭けるつもりで挑戦したい。このチームを闘う集団に変えて、地域の誇りと言ってもらえるクラブにしたい」と力を込めた。
 
 前橋商出身の野生児ストライカー。前商時代は全国選手権で2年連続ベスト4、卒業後は筑波大に進み、同期の藤田俊哉らとともに数々のタイトルを獲得した。大学時代はユニバーシアード日本代表でプレーしたほか、バルセロナ五輪予選で日本代表に選出。世界と戦えるストライカーという評価を得て、94年に横浜フリューゲルスへ加入した。
 
 横浜Fでは前線から激しくボールを奪いにかかる闘争心むき出しのプレースタイルで頭角を現わし、97年の1stステージでは11ゴールをマーク。だがコンスタントに結果を残すことができず、98年後期に川崎へ期限付き移籍。その年の暮れに、横浜Fは横浜マリノスとの統合を発表し、事実上「横浜フリューゲルス」は消滅した。
 
「期限付き移籍中だったが、あの時のことは忘れられない。群馬も昨季、クラブライセンス取得の危機にあったが、地元に恩返しするためにも力になりたかった」
 
 99年の横浜F・マリノス誕生後は、清水、新潟などへ活躍の場を求めたが、定位置を掴み切れずに2000年に福岡へ。2年半にわたり福岡でプレーしたのち03年に鳥栖へ移籍し、32歳で現役引退を決めた。
 
 その後、J晩年を過ごした福岡でサッカースクールを開校、子どもたちの育成に精力的に取り組む一方で、12年にはS級ライセンスを取得。そして群馬からのオファーが届いた。

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