あのブラジル人J戦士はいま【第3回】ジーニョ――「日本で悔いが残っているのが…」

2020年07月27日 沢田啓明

セレソンのW杯制覇に貢献しながら悔し涙を…

横浜フリューゲルスで2年半に渡ってプレーしたジーニョ。(C) J.LEAGUE

 派手なプレーや言動が目立つブラジル人選手の中では、少々地味で職人肌の男だった。

 技術レベルは、極めて高い。左足一本で何でもできる。しかし、それをひけらかすことはない。ジーニョは、攻守両面で貢献し、常にチームの勝利のため、献身的にプレーした。

 その一方で、大人しそうな外見とは裏腹に、激しい闘志を秘める。そして、セレソンの9番を付けて世界の頂点を極めたことに、この上ない誇りを持つ。
 
 8歳でリオの名門フラメンゴの下部組織に入り、ジーコに憧れた。18歳でトップチームに上がり、「夢心地で」(本人)憧れのジーコと一緒にプレーした。

 1992年、サンパウロの強豪パウメイラスへ移籍し、MFリバウド、左SBロベルト・カルロス、FWエジムンド、CFエバイール、MFセザール・サンパイオらと共にブラジル・リーグで2連覇。黄金時代を築いた。

 ブラジル代表にも招集され、1994年ワールドカップ・アメリカ大会で全試合に先発。FWロマーリオ、MFドゥンガ、左SBレオナルドらと共に母国に24年ぶり4度目の優勝をもたらした。

 ただし、帰国後、一部のメディアと国民から「物足りなかった。その場をクルクル変わっていただけ」と非難された。「エンセラデイラ」(回転式の掃除機)と嘲笑され、悔し涙を流した。
 
 1995年、エバイール、サンパイオと共に横浜フリューゲルスへ移籍。1997年のファーストステージまでの2シーズン半、チームの攻撃の中心として活躍した。

 1997年7月にフリューゲルスを退団し、パウメイラスへ復帰。その後、グレミオ、古巣フラメンゴなどでプレー。2005年には、知人と共に創設したノーヴァ・イグアスー(リオ州2部)でもプレーした。

「本当はそれで引退するつもりだった」(本人)そうだが、オーナーがブラジル人のマイアミ(アメリカ2部相当)からオファーを受け、2006年から1シーズン半に渡って在籍。現役引退後は監督も務めた。

 2011年、母国へ戻ってノーバ・イグアスーのGMとなり、その後、フラメンゴとサントスのGMを歴任。さらに、ヴァスコ・ダ・ガマの監督に就任した親友ジョルジーニョ(元鹿島)をコーチとして補佐した。
 

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