指導者は“クラック”を生むために何をすべきか――【元アルゼンチン代表DFの手記/最終章】

2020年05月26日 サッカーダイジェストWeb編集部

“偉大なるキャプテン”ボギーは…

こちらに鋭い視線を送る黒髪の少年が、プラセンテ(肘をかけている青年)も尊敬してやまなかった“ボギー”だ。 (C) Gentileza/AJ

 アルゼンチンの古豪アルヘンティノスの下部組織から代表戦士にまで上りつめたディエゴ・プラセンテ。その人生を振り返った手記を紹介する。

 最終章は、CBのコンビも組んでいた「カテゴリア77(※77年生まれの選手によって構成された下部組織のカテゴリー)」のチームメイトである"ボギー"への想い。そしてアルゼンチンのU-15代表を率いる立場から、育成年代の指導者たちへのアドバイスを綴っている。

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【パブロ・"ボギー"・エスキベル】

 ボギーは13歳にして、すでに大人も同然だった。

 天使のような笑顔に反抗的な目つきに、端正な顔立ちが魅力のモローチョ(※黒髪に浅黒い肌の男)で、顔の半分を覆うようなストレートのロングヘアーが特徴だった。アルヘンティノスで彼と知り合った13歳くらいの頃、その個性の強さと勇敢さが、僕には信じられなかった。まだ子どもだったのに、彼は人生の全てを知り尽くしていた。良い意味でも、悪い意味でも。

 ボギーは右SBとしてプレーしていて、僕が5軍で左SBにコンバートされるまでの4年間、CBでコンビを組んでいた。ポジションのコンセプトについては彼からたくさん学んだ。声を出して守備をまとめるだけでなく、実際にプレーもすごく巧かったし、必要とあれば、蹴りも入れていた。

 2人で同じボールに突っ込んでぶつからないように、「カベソン(※訳者注:ボギーがプラセンテを呼ぶ時に使っていた愛称で『頭でっかち』の意)、ボールが自分の前にある時がマイボールだからな」と言い聞かせてくれた。おかげで僕たちは声をかけ合うまでもなく、息の合ったプレーをしていた。

 彼はチームの声であり、心臓でもあった。偉大なるキャプテン、我がキャプテン。彼に頼まれたなら、僕は兵士として一緒に戦争にも行っただろう。
 

 僕が、オスバルド・"チチェ"・ソサ監督が率いるアルヘンティノスのトップチームでプレーしていた時にボギーも昇格してきて、1か月の夏期キャンプでマル・デル・プラタに行くことになった。

 でも、ボギーは、返事をすることと黙ることの違いを理解することができなかった。それは、兵士と将軍の区別がつかないようなものだ。チームの先輩たちは、友人である僕にそれを知らせてくれた。

 そこである夜、僕は彼の部屋に行って、一緒にマテ茶を飲みながら、出来る限りの優しい口調で返事の仕方に気をつけるように言った。「トップチームに入って来たばかりなんだし、少しは頭を下げなよ、みんなそうやって信頼を得ていくものなんだから」とね。

 そして、彼は言った。「俺はもう3日間も我慢してるんだ。いつまで黙ってろって言うのさ」。それは30日間も続くキャンプのわずか4日目のことだった。

 結局、彼にとってそれがアルヘンティノスのトップチームでのデビューとなり、別れとなった。キャンプの後、モロン(現アルゼンチン2部)にレンタルされ、サッカーを辞めてしまったのだ。

 日々の暮らし、環境、生きてきた世界そのものが、彼をそのように作り上げてしまったんだろう。結果がどうなるかを考えることもできないまま、あらゆるものに対して挑戦的な態度をとってしまうように。

 そのように生まれ、そのように生き、この世を去った。どうか安らかに休んでくれ、我がキャプテンよ――。

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