【担当記者コラム】プロフェッショナルを植え付けた“三浦体制”。北九州が迎えた大きな転換期

2020年05月10日 上田真之介

クラブ最高成績を残す

2011、12年、北九州を指揮した三浦監督。的確にチームを導いた。(C)SOCCER DIGEST

「ギラヴァンツ北九州のサッカースタイルを作っていきたい」。2010年12月7日、北九州市のホテルで開かれた就任会見の席上で語気を強めたのが、Jリーグチームを初采配することになった三浦泰年監督だった。

 北九州は09年にJFLで昇格圏ギリギリの4位に入り、10年からJ2に戦いの場を移していた。しかし、予算や環境に恵まれず、昇格初年は年間わずか1勝の19位に沈んだ(当時、降格はなし)。地域リーグから2度の昇格を果たした与那城ジョージ監督は勇退し、Jリーグを戦うチームへの変革は三浦監督に託された。

「北九州は地域リーグ、JFLと厳しく狭い門を勝ち抜いて昇格してきた。1年目の結果で自信を失ってしまいがちだが、もう一度、皆に自信を取り戻してもらいたい。ベテランにも伸びしろがある。自分が選手としてのキャリアや海外で勉強したことをベテランの成長につなげたいし、若い選手も育成する。才能がありながら伸び悩んでいる選手を再生し、しっかりとしたプロ選手を育てたい」
 
 就任会見でそう誓った三浦監督。北九州で指揮した2年間で「プロフェッショナルであれ」という言葉を繰り返し述べ、戦術や技術の底上げに加え、意識改革を断行。練習に臨む姿勢やメンタリティーの大切さを教え込んだ。

「上手い選手から順に(スタメンとベンチの)18人を並べているのではない」として、メンバーには周りにプラスの効果を与えられるプレーヤーを選出。39歳(当時)の大ベテランで戦術眼に優れる桑原裕義と、当時23歳で川崎から活躍の場を求めた木村祐志が11年の軸を担ったのは必然だった。

 持ち込んだスタイルはいわゆるパスサッカーだが、相手のペナルティエリアにどれだけボールを供給できたかを数値化し、ゴール前での展開にこだわった。システムは中盤をダイヤモンド型にした4-4-2。攻撃時にはボランチの桑原が最終ラインに降りて3バックに変化させる一方、SBは果敢に前線へと仕掛け、ゴール前に人数を割いていく。

「結果的に勝ったとしても、やってきたことを出さなくて勝つのは危機的な勝利だ。勝ちにこだわるのは当然だが、やろうとしていることを出せるゲームにしたい」

 内容と結果の両面を追い求める三浦スタイル。守りに入らず、相手ゴールへと繰り返し襲いかかるサッカーは、語弊を恐れずに言えば北九州らしいとも言えた。
 

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