【番記者コラム】アジア制覇と幻のマドリー戦。そして“最強の磐田”は生まれた

2020年04月30日 高橋のぶこ

まるで全員がひとつの脳で繫がっているかのように

02年シーズン、両ステージを制して“完全優勝”を達成。完成度の高いサッカーで観る者を魅了した。(C)J.LEAGUE PHOTOS

 2009年、10年と2年連続でJリーグ得点王に輝いた前田遼一が、高卒でジュビロ磐田に加入したのは2000年。翌01年には9試合に出場し、途中出場でピッチに立った第2ステージ1節の清水とのダービーマッチでプロ初ゴールを挙げた。

 相手DFの股を抜き、GKをかわしての技ありゴールはチームの勝利を決定づける3点目。秘めた才能を披露した若きアタッカーを祝福しようと集まった先輩たちを前に、しかし前田はひたすらこう言い続けたという。

「どうも、すみませんでした」

 当時、ピッチの中央で攻守のタクトを振っていた名波浩は後日、この時のことを「ゴールを決めて味方にあやまるヤツなんてなかなかいないよ」と笑って振り返った。だが、前田にしてみれば、ピッチ上でチームにかけていた迷惑はゴールひとつ決めたからといって拭えるものではなかったらしい。

「自分が試合に出ると、無理やり前に運ぼうとしてボールを取られたりして、攻守の流れを悪くしてしまう。周りが全然見えていなくて、チームの意図と反したことが多くて、そういう時は先輩たちにボロカスに言われたし、本当に申し訳ないという気持ちでいっぱいだった」というのが、その頃の偽らざる心境だったという。

 後に絶対的エースとして磐田を牽引する前田のこの言葉は、01年、02年と年間わずか3敗という戦績でJリーグを席巻し、今もクラブ史上のみならず、J史上最強とうたわれるジュビロサッカーの質の高さの証のひとつと言えるだろう。
                                    ■
 まるで全員がひとつの脳で繫がっているかのように、攻守両面で緻密に連係・連動し、阿吽の呼吸でプレーする。勝利を重ねただけではなく、観る者を魅了してやまない最強時代の磐田のサッカーは、2000年秋の鈴木政一監督の就任と新戦術の導入が契機となり、誕生した。
 
 それまでの6~7年間、メンバーの入れ替わりはほとんどなく、同じ顔ぶれの日本人選手が先発を続けていた磐田は、97年に初めてJリーグチャンピオンになって以来、常に優勝争いを演じる強豪の座を確たるものにしていた。01年、就任2年目の鈴木監督は自分たちのサッカーをもう一段上のレベルに引き上げるために、「よりアグレッシブで、クリエイティブで、超攻撃的」なスタイルの確立を目指した。

 自在にパスを繋いで中盤を制し、相手を疲弊させる攻撃力は、すでに磐田のカラーとなっていた。新しくチームに植えつけられ、強さの肝となったのは、前線からの組織的なプレス。リアクションではなく自らアクションを仕掛ける"攻撃"としての守備だ。

 ピッチに立つ選手たちが同じ意図を持って相手のボールホルダーをサイドに追い込み、そこで数的優位を作り、高い位置でボールを奪取する、あるいは相手の攻めを遅らせてパスコースを限定させる。マイボールになったらゴールを陥れる絵図を全員が瞬時に共有し、素早く攻め込む。「ボールの位置や味方の動きによって、全員が常にポジションを細かく修正しなければならないので、一瞬も息が抜けないし、ひとりでもサボッたりチームの意図を見失うと崩れてしまうので難しいことは難しい」と監督が語ったように、新戦術の体得は、無論簡単ではなかった。

 鈴木監督は、最初は個人、次にグループで守備の共通意識を持ち、自然にチーム全体の戦術理解とプレー精度を上げるプロセスで新たなチーム作りを進めていった。しかし、キャンプで最初に試みた時は、選手たちは拒否反応や戸惑いを示した。
 

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