「ざまぁ見やがれってんだ!!」。山形のクラブ史に残る"名物理事長の痛快なひと言”

2020年04月30日 頼野亜唯子

理事長就任当初、周囲の目は冷ややかだったが

09年のホーム最終戦でスピーチをした海保氏。「ざまぁ見やがれってんだ!!」と叫ぶ姿は感動的すらあった。写真:Jリーグフォト

 モンテディオ山形を取材するようになって、いつの間にか16年目になる。その間、いくつものエポックメイキングな出来事を目の当たりにしたが、クラブにとって最も重要なインパクトを残した出来事は何かと問われれば、あまり悩まずに答が出る。2008年に成し遂げた、初めてのJ1昇格だ。
 
 その意義の大きさは、その後の降格、昇格、降格を経た今も変わらない。それどころか、あの時に昇格していたからこそ今の山形がある、と思うことのほうが多い。そして、あの初昇格を思う時、小林伸二監督(現・北九州)や、宮沢克行キャプテン(現浦和ジュニアユースコーチ)、二枚看板の豊田陽平(現・鳥栖)、長谷川悠(ウロンゴン・オリンピックFC/オーストラリア)ら当時のメンバーにも増して、決して忘れることのできない人物がいる。海保宣生理事長である。
 
 海保氏が、当時まだ公益社団法人だったモンテディオ山形の運営母体・スポーツ山形21の理事長に就任したのは2006年5月。2000年まで鹿島アントラーズの常務取締役を務め、定年退職後は地元の千葉県で総合型スポーツクラブの立ち上げに尽力していたが、山形県からの依頼を受けた川淵三郎・日本サッカー協会会長(当時)の仲介で、地縁も血縁もない山形の地にやってきた。"落下傘人事"のような形での就任に「当初、周囲の目は冷ややかだったね」とのちに語っていたが、味方になったのはサポーターだった。
 
 ホームゲームの試合前には、サポーターの輪に入りスタジアムグルメの芋煮や肉そばを頬張りながら、腹を割って意見を交わす。サポーターの「このままではいつまで経ってもJ1に上がれない」という危機感と、「過剰と言ってもいいくらい」(海保氏)の期待を痛いほど感じた。そして動く。当時7億円ほどだった予算規模を拡大。財政を安定させないことにはチーム力を上げることもできないことを、海保はよく分かっていた。

 入場者を増やし、スポンサー獲得への施策を捻り出す一方で、07年には空席だったGM職を機能させるべく、前身であるNEC山形サッカー部の創設に関わった中井川茂敏氏に白羽の矢を立てた。すでに堅気の企業人だった中井川氏を引き抜いたのである。そして中井川氏が招聘した小林伸二監督が就任1年目でJ1昇格。駆け出しの番記者として傍で見ていても、よくできた物語のような展開だった。
 

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