横浜番記者が知る栗原勇蔵という男。「マリノス一筋」を貫いたプレーヤーの素顔と本音とは?

2019年12月08日 藤井雅彦

どんな時でも勇蔵の周りにはたくさんの人がいた

今季限りで引退する栗原がシャーレを掲げる。マリノス一筋を貫き通した。写真:徳原隆元

 勇蔵に出会ったのは、2006年の夏だった。

 当時の横浜には03-04年にリーグ2連覇を成し遂げた錚々たる顔ぶれが揃い、新米記者で20代前半だった自分には、話しかけるのも恐れ多い選手ばかり。気軽に雑談できる選手など見当たらず、毎日が緊張の連続だった。

 そんな中で、たまたま同い年だった勇蔵と馬が合った。自分も学生時代にCBだったから興味があったというのもあって、積極的に話しかけた。いつしか付き合いは練習グラウンドを飛び出し、プライベートでも多くの時間を過ごすようになった。

 距離が縮まった直接の理由は覚えていない。思い当たる節があるとすれば、共通の趣味が『プロレス』だったこと。プレステ2のプロレスゲームでよく対戦したけど、切った張ったの世界で生き抜いてきた勇蔵にはなかなか勝てなかった。

 ゲームと言えば、種目を変えてサッカーなら勝ち越していたと思う。負けず嫌いの勇蔵はそれを認めないはずだが、田中裕介(現・岡山)あたりに聞いてみれば分かるだろう。スピードのある選手をウイングに置いてゴリゴリとドリブルを仕掛けてくる勇蔵のオフェンスはワンパターンだった(笑)。

 どんな時でも勇蔵の周りにはたくさんの人がいた。先輩には弟のように可愛がられ、後輩からは兄貴分として慕われる。23~24歳だった勇蔵は、チーム内で若大将のような立ち位置にいた。というか、寂しがりの勇蔵は必ず誰かと一緒に行動していた。

 あれから12~13年の付き合いになるけれど、後輩からのオファーを断った場面は一度も見たことがない。「オレは向こうから来るヤツにちゃんとするよ」と漢気溢れる言葉を聞いたのも一度や二度ではない。勇蔵に世話になった後輩Jリーガーは、日本全国に数えきれないほどいる。こんなにリスペクトされている選手を、自分は他に知らない。

 たくさんの仲間たちがさまざまな理由で横浜から離れていく中で、引退まで勇蔵だけは横浜一筋を貫き通した。それだけで愛の大小を語るのは他の選手に失礼かもしれないけれど、誰よりも大きな横浜愛と強い横浜魂を持っていたのは間違いない。

 マツさん(故・松田直樹)が亡くなってからは、契約更改後に「マリノス一筋」を宣言するのが恒例行事になった。その言葉にクラブとサポーターがどれだけ救われたことか。メディアの立場からすると格好のネタだったのも事実。でも言える選手は限られているし、誰もが気軽に言っていい台詞ではないから、それは勇蔵の役目だったのだろう。
 

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