京都U-18の元10番、財前淳が浪人生活を経てオーストリア1部へ。異色の経歴を持つ19歳が明かす、闘いの日々と結果への自信

2019年01月23日 江國 森(サッカーダイジェストWeb編集部)

「精神的に追い込まれた時期もありました」

オーストリアで奮闘する財前。2部ではプロ初ゴールを挙げた。写真:本人提供

「皆さん、ボンジョルノ。私の名前はザイゼン・アツシです。京都から来ました。よろしくお願いします」

 突然のイタリア語のスピーチに、周囲はどよめいた――。

 ちょうど1年前の1月、高円宮杯U-18プレミアリーグの選抜チームが、遠征先のミラノに到着した、その日の晩のことだった。

 夕食の前に、選手たちが自己紹介をすることになった。そのトップバッターを任された財前淳(当時は京都サンガU-18に所属)が、スラスラとイタリア語で話し始めたのだ。

 実は、行きの飛行機の中で熱心にイタリア語を勉強していた財前。彼がこの遠征に人一倍高いモチベーションで臨んでいたのには訳があった。

 まだ進路が決まっていなかったのだ。

 京都U-18では10番を背負って攻撃の中心として活躍したものの、トップチーム昇格は叶わなかった。立命館宇治高校から立命館大へ内部進学することが決定していたとはいえ、あくまで「すぐプロになる」のが目標だった。このミラノ遠征で活躍すれば、声を掛けてくれるクラブがあるかもしれない――。イタリア語を勉強していたのも、そんな思いからだった。

 それはピッチ上でも伝わってきた。日本の10番を背負い、インテルと提携関係にあるASヴィズ・ノーバとの試合で2ゴール。鋭い突破を何度も披露し、敵将に「ドリブルが上手くてスピードがあり、まるでマラドーナのようだ」と言わしめた。

 イタリアから帰国した後も、しばらくはチームが決まらない時期が続いた。いわばサッカー浪人だった財前が、念願のプロ契約を勝ち取ったのは18年の5月。オーストリア・リーグ1部へ昇格したばかりのヴァッカー・インスブルックと契約を結んだのだ。

 プロ1年目の前半戦を終え、ウインターブレイクを利用して日本に帰国していた財前から、話を訊くことができた。プロにこだわり、単身オーストリアに渡った19歳の貴重なインタビューをお届けする。

――◆――◆――
 
――京都のトップチームに昇格できないと分かったのはいつ?

「一昨年の10月頃だったと思います」

――大学でサッカーをやるつもりはなかった?

「プロになって、自分で学費を払って大学に通うつもりでした。親との約束や家庭の事情で、大学でサッカーをやるという選択肢はなかったですね」

――進路が決まらない時期が長く続きました。

「辛かったですね。京都サンガのサポーターを笑顔にする事が自分の夢だったので、昇格できないって分かった時は自己嫌悪に陥って……。なにやってんだろうって。正直、かなり精神的に追い込まれました。サッカーが出来る場所さえもなくなって、近くの公園でひとりでボールを蹴っていた時期もありました」

――インスブルックと契約したきっかけは?

「父がいろいろと奔走してくれて。イタリアやスペインをはじめ、ヨーロッパのいくつかのクラブが僕に興味を持ってくれました。そのひとつがインスブルックでした。まず練習に参加させてもらうことになり、何日間かトレーニングをした後、契約のオファーをくれたんです」
 

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