レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY――第44回・ヴィエラ(元フランス代表)

2019年01月04日 サッカーダイジェストWeb編集部

アーセナルで「世界最高のMF」に成長!

中盤で全ての役割を果たしながら、得点にも絡んでいったヴィエラ。どの監督も欲しがるMFだった。 (C) Getty Images

  本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
 
 さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、優れた身体能力とテクニック、戦術眼を駆使して中盤を攻守で掌握し、時に重要なゴールも奪ったMF、パトリック・ヴィエラだ。
 
 アーセナル、そしてフランス代表の隆盛に大きな貢献を果たした、偉大なるファイターの軌跡を、ここで振り返ってみよう。
 
――◇――◇――
 
 1976年6月23日、パトリック・ヴィエラはセネガルの首都ダカールで生まれ、8歳の時に家族とともにフランスへ移住した。
 
 移り住んだ街トラップの地元クラブでプレーを始めたヴィエラだったが、間もなく両親は離婚。母親の仕事の都合でドルーに引っ越し、ここで頭角を現わす。13歳ですでに身長が180センチに達したという彼は、ナンシー、ナントといったクラブからスカウトを受けたが、91年にトゥールに入団する。
 
 この頃にはさらに身長が188センチまで伸びていた15歳の少年は、中盤のゲームメーカーとしての高い資質を示すとともに、守備面でも成長を遂げ、早くも自身のプレーの基盤を作り上げつつあった。
 
 そして93年に1部のカンヌに引き抜かれ、ユースチームで5か月ほどを過ごした後、11月20日のナント戦でプロデビュー。ルイ・フェルナンデス、サフェト・スシッチという歴代監督からは絶大な信頼を寄せられ、10代にしてヴィエラはキャプテンマークを腕に巻いた。
 
 2年目には国内リーグで31試合に出場して2ゴールを挙げた他、欧州カップ戦(UEFAカップ)も経験。そして注目の銘柄となっていた3年目、カンヌの財政難によって移籍は避けられない状況となり、バルセロナ、マンチェスター・ユナイテッドからも関心を寄せられたものの、95年11月、ミラン移籍で合意に達した。
 
「フランク・ライカールトの後継者」との多大な期待をかけられ、月収は100倍にはね上がったが、当時のミランにはマルセル・デサイー、デメトリオ・アルベルティーニら、すでに実績十分なワールドクラスのMFが多く在籍しており、ヴィエラのこのシーズンの出番は公式戦5試合に止まった。
 
 伸び盛りのヴィエラはプレーできない状況を嫌い、退団を希望。当初、アヤックス行きの可能性があったものの、行き先はアーセナルとなった。フランス人選手が何人か在籍し、何より監督もフランス人のアーセン・ヴェンゲルだったことで、「母国語で監督と話ができるのは大きい」と、ヴィエラはこの移籍を喜んだ。
 
 彼のプレースタイルは、アーセナルにフィットし、ここから飛躍的な成長を遂げる。192センチの強靭な体躯を活かしてボールを奪い、そこからゲームを組み立て、さらにポジションを上げてこぼれ球を拾ってミドル、あるいは前線でボールを受けてフィニッシュなど、多くの役割をこなしていった。
 
 1年でリーグ31試合に出場して不動のレギュラーとなり、翌97-98シーズンには7年ぶりのリーグ優勝に貢献。その後、プレミア制覇は2001-02、03-04シーズンにも成し遂げることとなる。アーセナルでは他に、FAカップで4度、コミュニティーシールドを4度と、計12個のタイトルを手にした。
 
「イングランドで揉まれ、誰にも負けないガッツを手に入れた」と後に振り返ったヴィエラだが、当初はその闘争心が過剰なハードプレー、そして相手選手との対立に繋がり、「カードコレクター」と呼ばれるほどに警告・退場が多い選手だったが、徐々にプレーは落ち着き、アーセナルでの最後の3シーズンはキャプテンを務めた。
 
「世界最高のMF」と称され、あのレアル・マドリーからのオファーを受けながら、アーセナルで9シーズンを過ごしたヴィエラだったが、05年夏、慣れ親しんだクラブを離れる決心を下したのだった。

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