大迫勇也が加入したクラブ、ブレーメンとは?――日本人のパイオニアが足跡を残した緑の古豪

2018年05月17日 サッカーダイジェストWeb編集部

ブンデスのオリジナルメンバーは2年目で優勝

奥寺(右)に続くブレーメン2人目の日本人選手となった大迫(左)。ともにケルンにも在籍した2人は今後、現地でも何かと話題となり、比較もされることだろう。 (C) Getty Images

 大迫勇也が1890ミュンヘン、ケルンに続いて、ドイツでの3番目の所属先として選択したのが、過去4度のリーグ優勝を飾っている古豪ブレーメンだった。
 
 ドイツの北部の大都市、ブレーメン州の州都ブレーメンに所在するクラブ。現在のスタジアム「ヴェーザー」は市内を流れる川の名称でもあるが、ここの「中州」を意味する「ヴェルダー」を付けた「ヴェルダー・ブレーメン」が、このクラブの正式名称だ。クラブとしては、他の球技や陸上競技などの部門も有している。
 
 創設は1899年。60-61シーズンにDFBカップを制して初タイトルを獲得し、63-64シーズンから始まった全国リーグ「ブンデスリーガ」では、16チームのオリジナルメンバーのひとつとして参戦し、ファーストシーズンを10位で終えた。
 
 その翌シーズンに早くもリーグ優勝。初代王者ケルンを抑えて初戴冠を果たしたブレーメンはその後、中位から下位の順位が続き、79-80シーズンには17位に沈んで、初の2部降格を味わう。しかし、1年で1部復帰を果たしてからは、現在まで最高カテゴリーでのプレーを維持している。
 
 このクラブが日本にとって非常に近い存在となったのは、1部復帰を果たした81年。ケルン、ヘルタ・ブレーメンと渡り歩いた奥寺康彦(現・横浜FC取締役会長)が、オットー・レーハーゲル監督の誘いを受け、緑のユニホームを身に纏ったのである。
 
 奥寺が在籍した5シーズンで、ブレーメンは3度の2位。彼にとってドイツ最終年となった85-86シーズンには、首位で最終節を迎え、引き分けでも優勝というところでシュツットガルトに敗れ、勝点で並んだバイエルンに得失点差でマイスターシャーレを奪われるという失望に満ちた結末を迎えた。
 
 しかし、ブレーメンはこの2シーズン後に2度目のリーグ優勝を果たす。核となったのは後にドイツ代表でも活躍するストライカーのカール=ハインツ・リードレ、そして得点力の高いDF、ノルウェー代表のルネ・ブラツェットだった
 
 この優勝でチャンピオンズ・カップ(現リーグ)出場権を得ると、準々決勝まで勝ち進んだが、このシーズンで久々の欧州制覇を果たし、長く続く黄金時代へ突入していくミランにマルコ・ファン・バステンのPK一発にやられて(2戦合計スコア0-1)敗退。これが、93-94シーズン(※)と並んで、同コンペティションでのブレーメンの最高記録となっている。
 
※93-94シーズンのチャンピオンズ・リーグは、トーナメント方式による1、2回戦の後、勝ち残った8チームを2グループに分けてリーグ戦を行ない、各上位2チームが準決勝進出をいう方式を採用した。ブレーメンは3位で敗退。

次ページ90年代前半に隆盛を極めたが、近年は中位以下に…

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