レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY――第35回・エトー(コンヤスポル所属/元カメルーン代表)

2018年04月05日 サッカーダイジェストWeb編集部

2年連続で3冠に貢献した万能のストライカー

バルサで選手としての価値を一気に高めた。歓喜の彷徨がたびたび見られたが、勢い余って持ち前の“毒舌”が顔を出し、ライバルチームを挑発して謝罪する羽目になったことも……。 (C) Getty Images

 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
 
 さて今回、サッカーダイジェストWebに登場するのは、優れたテクニックと身体能力を活かしてあらゆるかたちでゴールを量産するだけでなく、多くのチャンスを味方に提供し、守備でも多大な貢献を果たしてきた万能のFW、サミュエル・エトーだ。
 
 ビッグクラブを渡り歩いて数々の栄光を手にし、代表チームでは母国の英雄として名を残したカメルーン産の偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
 
――◇――◇――
 
 1981年3月10日、カメルーン最大の都市ドゥアラに誕生したサミュエル・エトー。翌年のスペイン・ワールドカップで代表チームが大善戦(同大会優勝のイタリアら強豪国と1次リーグで同組となり3戦3分け)を見せたことで、よりサッカー熱が高まるなかで、彼も幼少時からボール蹴りに熱中した。
 
 地元のスポーツアカデミーで技を磨いたエトーに転機が訪れたのは96年。欧州の多くのクラブから誘いを受けた上で、スペインの名門レアル・マドリーのアカデミーへ移ったのである。
 
 国内ではバルセロナから覇権を奪回し、30数年ぶりに欧州王者への返り咲きを果たそうとしていた時期のマドリーでの経験は、十代の少年にとっては貴重なものだったが、EU圏外の枠は一杯であり、出場機会は巡って来ず、エトーは97年からレガネス、エスパニョール、マジョルカでレンタル生活を送った。
 
 結局、マドリーでは3試合の出場に止まり、2000年にマジョルカへ完全移籍。1年目で早くもリーガ・エスパニョーラで2桁得点を達成し、レンタル期間を含めた5シーズンで54得点を記録した。
 
 02-03シーズンには、コパ・デル・レイ(国王杯)を制して初のチームタイトルを獲得。レクレアティボとの決勝では2ゴールを挙げ、勝利の立役者となった
 
 そんな彼をビッグクラブは放っておかず、04年夏、2400万ユーロの移籍金でバルセロナに加入。ロナウジーニョらを中心にして昇り調子だったチームでエトーも躍動し、1年目でチームトップ、そしてリーグ得点ランキングでも2位となる25ゴールを挙げて、リーグ優勝に貢献を果たした。
 
 続く05-06シーズンでは、26ゴールで初のリーグ得点王に輝き、バルサはリーグ連覇、さらに14年ぶり2回目のチャンピオンズ・リーグ(CL)優勝という偉業を成し遂げる。エトーはアーセナルとの決勝、試合を振り出しに戻すゴールを決めた。
 
 しかし、翌シーズンは右膝を傷めてシーズンの半分近くを棒に振り、さらにフランク・ライカールト監督と起用をめぐって対立した他、生活態度の乱れていたロナウジーニョを批判してチームに内に亀裂を生じさせるなど、ネガティブな事象ばかりが目立つ1年となった。
 
 07-08シーズンはティエリ・アンリが加入したことで、メッシを含めた3トップが注目されたものの、エトーはまたもや怪我で戦列を離れ、18試合の出場に止まった。それでもチーム最多の16得点を記録したものの満足とは程遠く、退団をほのめかす発言で注目を集めたりもした。
 
 これらの経緯から、ジョゼップ・グアルディオラ体制の1年目となった08-09シーズン、エトーは戦力外と見られていたが、新指揮官の下でやる気を取り戻し、1年遅れでメッシ、アンリの3トップによるゴールショーを、シーズンを通して披露。彼自身は30ゴールの大台に到達した。
 
 このシーズン、バルサは国内外で無類の強さを発揮し、リーガ、国王杯、そしてCLの3冠を達成。エトーはマンチェスター・ユナイテッドとのCL決勝で、開始10分に決勝点となる先制ゴールを挙げるという大きな仕事を果たした。
 
 今に続くバルサの隆盛期の幕開けに尽力したエトーだったが、09年夏にズラタン・イブラヒモビッチとのトレードでバルサを離れることとなり、新たな挑戦の地、イタリアに旅立った。

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