スペイン中が冥福を祈ったゴールのレジェンド――誘拐されても得点王になったキニ

2018年03月05日 サッカーダイジェストWeb編集部

バルサは優勝と引き換えに彼の解放を要求

アトレティコ・マドリーとの首位攻防戦を前に、バルサはキニの冥福を祈り、勝利を捧げた。ちなみに故郷オビエドでの葬儀には14000人が訪れ、ヒホンのホームスタジアムは「エル・モリノン・エンリケ・カストロ・キニ」に改称された。 (C) Getty Images

 現地時間2月27日、1960年代から80年代にかけて、ヒホン、バルセロナなどでプレーし、リーガ・エスパニョーラで5度の得点王に輝いた元スペイン代表ストライカー、エンリケ・カストロ・ゴンサレス、通称「キニ」が心筋梗塞により、68歳で亡くなった。
 
 ウイークデーに行なわれたリーガ第26節とこの週末に行なわれた27節の全試合で、黙祷が捧げられ、スペイン中がレジェンドの死を悼むとともに、彼が残した偉業に改めて敬意を表しながら、その冥福を祈った。
 
 リーガ2部でも2度の得点王に輝いたキニは、178センチと上背はなかったものの、優れた得点能力を武器にゴールを量産し、ヒホン時代に74、76年でトップスコアラーになると、80年に3度目の戴冠。この年の夏にバルサに活躍の場を移すと、82年まで連続してタイトルを守った。
 5度の得点王は、アルフレド・ディ・ステファノ、ウーゴ・サンチェスと並ぶ歴代2位の大記録(1位はテルモ・サラの6回)であり、現時点でリオネル・メッシ(4回)やクリスチアーノ・ロナウド(3回)の上を行っている。
 
 クラブでの華やかな活躍に比べると、スペイン代表では今ひとつその真価を発揮できなかったといわれるが、ワールドカップは78年アルゼンチン大会と自国開催の82年大会、EUROは80年イタリア大会(背番号は10)に出場。70年から82年までに35試合に出場し、8得点を挙げた。
 
 このようなスペイン・サッカーの歴史にも残る偉人のキニだが、彼のキャリアを語る上で欠かせないエピソードが、81年3月1日に起きた誘拐監禁事件である。
 
 当時、バルサに在籍していた彼は、リーガのエルクレス戦で2ゴールを挙げた後、夫人を迎えに行った空港で2人組に銃を突きつけられて拉致され、25日間にわたって監禁されることとなった。
 
 当初、犯人側が「カタルーニャのチームがリーガを制することは許さない」との声明を出したことで政治的誘拐だと思われたが、後に3億5千万ペセタ(3億円前後)の身代金がバルサに対して要求される(犯人逮捕後、金銭目的の誘拐だったことが判明している)。
 
 このニュースはスペイン全土に広がり、大きな衝撃を人々に与えたが、それはバルサも同様だった。
 
 このシーズン、バルサはキニや新加入ベルント・シュスターらの活躍で、73-74シーズン以来の優勝も十分に可能な位置につけていたが、事件発覚後、クラブは「身代金を支払う準備はできている。そしてキニの解放を条件に、我々は優勝を放棄する。これは全選手も同意している」と声明を発表した。
 
 実際、事件が起きてからの4試合でバルサが挙げた勝点はわずか1。選手はプレーすることも嫌がったが、クラブの説得でピッチに立ち、形式的に試合を"こなした"。最終的にバルサは5位でシーズンを終えるが、優勝したレアル・ソシエダとの勝点差は4だった。
 
 事件は3月25日、スイスで犯人のひとりが逮捕されたことで急展開を見せ、翌日にサラゴサの自動車修理工場でキニは無事に保護された。
 
 心身に大きなダメージを負ったはずのキニだったが、驚くべきことに彼はすぐに戦列に復帰し、出場4試合で2ゴールをマークし、前述の通りこのシーズンでも得点王を獲得。さらにコパ・デル・レイ決勝では古巣ヒホン相手に決勝点を含む2ゴールを挙げ、チームにタイトルをもたらした。
 
 その後、バルサの通算3000得点目のスコアラーになり、ここでも歴史に名を残したキニは、84年に一度は引退を決意するも翻意してヒホンに戻り、87年に正式にユニホームを脱いだ。引退後はヒホンのSDも務めた彼は、2008年に咽頭ガンに罹ったが、これを克服している。
 
 バルサやバルセロニスタは、キニのピッチ上での活躍とともに、彼の不屈の精神力を称えた。そして、あの悪夢に見舞われたシーズンの真の勝者は自分たちであると、今でも自負している。

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