2つの悲劇とその後の繁栄

2014年04月11日 サッカーダイジェストWeb編集部

マンチェスター・Uとリバプールが示した哀悼の意

キャリック(手前)はこの日のことについて、「とても感銘を受けた」と語っている。 (C) Getty Images

◆ミュンヘンの悲劇から56年

 チャンピオンズ・リーグ準々決勝の第2レグをバイエルンと戦うため、4月8日に敵地ミュンヘンに降り立ったマンチェスター・ユナイテッド。戦いの準備に入る前にチームが訪れたのは、56年前の悲劇を記した慰霊碑だった。

 1958年2月6日、チャンピオンズ・カップ(当時)準々決勝でレッドスターを下し、敵地ベオグラードからの帰途についていたユナイテッドは、給油で立ち寄ったミュンヘンで離陸に失敗。オーバーランで建物に激突した飛行機は炎上し、選手8人、スタッフ2人を含む23人が犠牲となった。

 チームとして大打撃を負いながらも、生き残ったマット・バスビー監督、ボビー・チャールトンらによって目覚ましい快進撃を見せたユナイテッドは、事故から10年後にチャンピオンズ・カップ優勝を果たし、亡くした仲間にビッグイヤー(優勝トロフィー)を捧げたが、「ミュンヘンの悲劇」はクラブの歴史において、永遠に拭い去ることのできない悲しみの記憶として、いまなお引き継がれている。

 悲劇から56年。ユナイテッドの選手、スタッフは、慰霊碑に花を供え、無念にもこの地に散った先達の冥福を祈った。そして、その周囲には、集まったファンのチャント「ウィー・アー・ネバー・ダイ」が響き渡っていた。

◆ヒルズボロの悲劇から25年

 一方、リバプールでは「ヒルズボロ・パッチ」というアイロンで貼り付けられるワッペンが2ユーロで発売されている。

"ヒルズボロ"とは、言うまでもなく1989年4月15日に起きた、サッカー史上にも残るあの悲劇のことだ。FAカップ準決勝のノッティンガム・フォレスト戦前、収容人員を超える人々がスタンドに入り込んだため、96人ものリバプールファンが圧死。ヒルズボロ・スタジアムの光景は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 あれから25年という節目の年となる今年、この出来事を風化させないために、前述のワッペンが制作された。「決して忘れない」という犠牲者への思いを綴ったワッペンの価格は2ユーロで、その売り上げは遺族に贈られるという。また4月13日のプレミアリーグ34節のマンチェスター・シティ戦では、ユニホームにこのワッペンを貼付して試合に臨むこととなる。

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