【川口能活クロニクル】ヒデがいなかったらW杯には出られなかった――フランスW杯アジア最終予選・イラン戦

2017年05月26日 サッカーダイジェストWeb編集部

ジョホールバルで対戦したイランは当時のアジア最強だと思っていた。

初出場を決めたフランスW杯アジア最終予選のイラン戦。中田英が相手と交錯した城を励ます。(C) SOCCER DIGEST

 川口能活、41歳。彼のサッカー人生は、言い換えれば、日本代表の"世界挑戦"の歴史と重ね合わせることができる。絶対に負けられない戦いのなかで、彼はどんなことを考えていたのか。「川口能活クロニクル」と題した、日本サッカー界のレジェンドが振り返る名勝負の知られざる舞台裏――。
 
第7回:1997年フランス・ワールドカップ アジア最終予選 第3代表決定戦
        日本 vs イラン
 
■日本サッカー史上もっとも重要度の高い一戦
 1997年11月16日――。この日は日本のサッカーファンなら誰でも知っていることでしょう。
 
"ジョホールバルの歓喜"と呼ばれたフランス・ワールドカップ・アジア最終予選・第3代表決定戦は、日本初のワールドカップ行きが懸かった一発勝負の試合でした。
 
 当時、日本サッカー界は"崖っぷち"の状況にありました。4年後、日本は韓国との共催という形で、ワールドカップ開催を迎えることが決まっていました。歴史を振り返っても、自国開催で初出場となる国は一度もありません。サッカー史に残る不名誉な歴史を作ることなんて、誰も望んでいませんでした。
 
"ドーハの悲劇"から4年。是が非でも、フランス大会で初出場したい――。連日のマスコミ報道の過熱ぶりを見ても、文字通り、日本国民の期待を一身に受けて臨んだ一戦。これまで日本はいろんな大事なターニングポイントとなる試合を迎えてきましたが、重要度で言えば、日本サッカー史上もっとも高いゲームだったと言っても過言ではないでしょう。
 
■イランの攻撃力は脅威だった
 当時、僕は22歳でした。若いからこそ勢いでプレーしていた部分はありました。1年前にはアトランタ五輪でブラジルに勝ったという自信もありました。日本中の期待を背負い、重圧と戦うことには慣れていたつもりでしたが、3か月間におよぶ長く厳しい最終予選をただガムシャラに戦ってきて、イランとの第3代表決定戦へとたどり着いたのです。
 
 中立地のマレーシアで開催されたイランとの一戦は、ご存知の通り、延長戦にもつれるほどの厳しい戦いとなりました。
 
 舞台となる中立地マレーシア・ジョホールバルには、およそ2万人の日本のサポーターが駆けつけてくれました。ホームの雰囲気のなかで戦えたのは、僕たちにとって大きな力になりました。
 
 当時、イランはアジア最強だと思っていました。日本は全員がいわゆる国内組の選手でしたが、対するイランは、ダエイ、アジジ、マハダビキア、バゲリなど、ブンデスリーガでレギュラーとしてプレーしている選手が多かった。とくに攻撃力は日本より上とも言われていましたから、無失点で終えることはできないだろうなと思っていました。

次ページ2対2で迎えた延長戦。ピッチ上は彼の独壇場だった。

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