目下ブレイク中の新助っ人バブンスキー。“東欧の貴公子”と謳われた父ボバンはどんなJリーガーだった?

2017年03月06日 川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)

長男はバルサの、次男はマドリーのカンテラ出身。

マケドニアの英雄である父ボバン(左)のDNAを受け継いだダビド(右)。齋藤学とともに好調マリノスを牽引する。(C)SOCCER DIGEST

 開幕2戦連続ゴールで一躍名を上げたのが、横浜F・マリノスの新助っ人ダビド・バブンスキーだ。1節・浦和レッズ戦での強烈ミドル、2節・札幌戦での技ありハーフボレーと、ともに難易度の高いフィニッシュで観衆を魅了した。
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 瞬く間にブレイクしたマケドニア代表の若き新鋭アタッカー。その父ボバンが、元Jリーガーであることは広く知られている。では、"東欧の貴公子"と謳われた彼は、どんなキャラクターとプレースタイルの持ち主だったのか。およそ20年が経ったいまでも、よく覚えている。
 
 ボバン・バブンスキーが初めて日本の地を踏んだのは、1996年の夏だった。年齢は28歳。フットボーラーとして脂が乗り切っていた。ヨジップ・クゼ指揮下のガンバ大阪が、衰えの見え始めたロシア代表CB、アフリク・ツベイバに代わる即戦力として獲得したのだ。
 
 当時のガンバには、ほかにムラデン・ムラデノビッチ、ヴィエコスラブ・スクリーニャ(ともにクロアチア国籍)、ハンス・ヒルハウス(オランダ国籍)といった欧州出身の助っ人が幅を利かせていた。2000年代以降のガンバはブラジル人選手オンリーの強化となるのだが、90年代はそこかしこに欧州の香りが漂っていて、練習場周りはじつに華やかだった。
 
 Jリーグでのハイライトとなったのはやはり、97年シーズンだろう。ガンバはオフに"浪速の黒豹"ことFWパトリック・エムボマに加え、ドラガン・ストイコビッチ二世の呼び声が高い技巧派MFネボイシャ・クルプニコビッチ(登録名クルプニ)を獲得。高3だった稲本潤一が躍動するなど話題を集め、チームもクゼ式の堅守速攻がものの見事にはまり、創立以来初めて、優勝争いを繰り広げた。
 
 バブンスキーは最終ライン不動の要だった。強さと巧さを兼備するCB(足は速くなかった)で、クゼ監督が志向した「3バック+1」の変則ラインを統率。左SB平岡直起の攻撃性能をフルに引き出すべく、3バックを巧みにスライドさせて操り、堅牢を支えた。
 
 クールな風貌のままに、普段は口数が少なかった。「誰と仲がいいのか?」と訊いたところ、「やはりネボイシャは故郷が近いからかわいいし(ともに旧ユーゴ出身)、パトリックとはサッカー以外の話をたくさんするね。でも一緒に出掛けたりはあまりしない。家族といるのが大好きなんだ」と話していた。当時、万博記念競技場のロッカールーム周辺で、まだ2~3歳だったダビド君を見たような見てないような……。記憶は定かではないが、家族思いの子煩悩なパパだった。
 
 ガンバ退団後はギリシャ、スペイン、ベルギー、ドイツのクラブを渡り歩き、01年に母国マケドニアのラボトニツキでスパイクを脱いだ。引退後は指導者の道に進み、マケドニア代表のスタッフに。05年8月から半年間は暫定監督を務め、09年から5年間はU-21代表チームの監督を歴任した。
 
 長男のダビドはバルセロナのカンテラ出身で、ご存じのとおり今季から横浜でプレーしている。一方、レアル・マドリーの下部組織出身の次男ドリアン(20歳)は、スロベニア1部のラドニェに籍を置く(同リーグのリュブリャナからのレンタル)。
 
 はたして父ボバンはいかにして、ふたりの息子を創造性豊かなアタッカーに育て上げたのか。どこかで再会した時は、その秘訣を教えてもらいたい。
 
文:川原崇(サッカーダイジェストWeb編集部)
 
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