レジェンドの軌跡 THE LEGEND STORY――第15回・ベッケンバウアー(元・西ドイツ代表)

2017年02月02日 サッカーダイジェストWeb編集部

取り得る限りのタイトルを取り尽くした栄光に満ちたキャリア。

中堅クラブを世界に冠たる偉大なチームに引き上げたベッケンバウアー。そして自身もサッカー界のレジェンドとなった。 (C) Getty Images

 本誌ワールドサッカーダイジェストと大人気サッカーアプリゲーム・ポケサカとのコラボで毎月お送りしている「レジェンドの言魂」では、サッカー史を彩った偉大なるスーパースターが、自身の栄光に満ちたキャリアを回想しながら、現在のサッカー界にも貴重なアドバイスと激励を送っている。
 
 さて、今回サッカーダイジェストWebに登場するのは、エレガントなプレーでバイエルンと西ドイツ(当時)代表の中心として、全てのタイトルを獲得した「カイザー(皇帝)」 、フランツ・ベッケンバウアーだ。
 
 選手としてだけでなく、監督としても世界の頂点に昇り詰め、サッカー界に強い影響力を誇り続けた偉人の軌跡を、ここで振り返ってみよう。
 
――◇――◇――
 
 フランツ・アントン・ベッケンバウアーが生まれたのは、第二次世界大戦が終わって間もない1945年9月11日。敗戦国ドイツのミュンヘンで、偉大なる才能はこの世に"降臨"した。
 
 幼い頃からストリートサッカーに興じていたフランツ少年は、西ドイツが初めてワールドカップを制した54年に、地元のクラブに入団。技術に優れた彼は、ウイング、CFなど攻撃的選手として頭角を現わしていった。
 
 その4年後、バイエルンの門を叩く。憧れの1860ミュンヘンへの入団が決まりかけていたのに、それより人気でも実力でも劣るバイエルンを選んだのは、ある大会の決勝で1860ミュンヘンと対戦した際、相手選手に殴られたことが原因だったという。
 
 ここで、技術と戦術理解度を高め、プロに必要なフィジカルを鍛えていったベッケンバウアーは、バイエルンが創設間もないブンデスリーガではなく、その下のリーグに属していた64年の6月6日、昇格ラウンドのザンクト・パウリ戦(4-0の勝利)でプロデビューを果たした。
 
 翌64-65シーズンには主力として31試合に出場し、16ゴールを記録。ポジションを中盤に下げ、チャンスメイクも得点もできる攻撃の中心として、チームのブンデスリーガ昇格に大貢献を果たした。
 
 65-66シーズンからのトップリーグでの戦いは、バイエルンにとっても、彼にとっても栄光に満ちたものとなる。まず同シーズンはDFBカップに優勝したが、ベッケンバウアーはデュイスブルクとの決勝戦でダメ押しの4点目を挙げている。
 
 翌シーズンにもDFBカップを制したバイエルンは、国内カップ王者として臨んだカップウィーナーズ・カップでも、決勝でレンジャーズを下して優勝。これはクラブにとっても、ベッケンバウアーにとっても初の欧州タイトルとなった。
 
 リーグ戦では昇格以降、3位、6位、5位という成績を残してきたが、68-69シーズンに初優勝を成し遂げる。そして70年代に入るとクラブは黄金時代を迎え、71-72シーズンから3連覇を達成した。
 
 ベッケンバウアーをはじめ、"稀代の守護神"ゼップ・マイヤー、「爆撃機」と称された点取り屋のゲルト・ミュラーら、母国代表チームの中核を成す選手で構成されたバイエルンは、国内で圧倒的な強さを発揮しただけでなく、欧州にも覇を唱える。
 
 73-74シーズンにアトレティコ・マドリーを再試合で下して初優勝を飾ったのを皮切りに、74-75シーズンはリーズ、その翌シーズンにはサンテティエンヌを決勝戦で下し、チャンピオンズ・カップ(現リーグ)3連覇を果たしたのだ。
 
 欧州王者として出場権を得たインターコンチネンタルカップでは、74、75年は南米チームとの暴力沙汰を恐れて出場を辞退したものの、76年はクルゼイロを下し、初の世界一に昇り詰めた。
 
 ベッケンバウアーはもちろん、これらバイエルンのタイトル獲得に大きく貢献。個人でも、ドイツ年間最優秀選手に66、68、74、76年と4度も選出されている。また、バロンドールを2度(72、76年)獲得したことは、彼の価値をさらに高めた。
 
 77年にバイエルンを離れて、当時隆盛を誇ったNASL(北米リーグ)に参戦し、ニューヨーク・コスモスに入団した彼は、ペレの後を継いでリーグの目玉選手となり、チームを3度のリーグ制覇に導いた。
 
 そして80年に帰国してハンブルクでプレー。ここでは大きな怪我に見舞われたりもしたが、81-82シーズンに自身最後のリーガ制覇を果たしている。
 
 凡人にとってはどんなに難しいプレーも簡単にこなし、前線、中盤、そして彼の代名詞ともなったリベロとして攻守で重要な役割を担い続けた"皇帝"。その威厳に満ちたプレーは、最後のシーズンとなった83年(コスモス所属時)まで何ら変わることはなかった。

次ページ74年にW杯を制し、90年には指揮官としても世界の頂点に。

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