【鳥栖】兵役対応のためにクラブを去るキム・ミヌ。苦境の度に繰り返す「仕方ないですね」に込められた熱い想い

2016年11月01日 荒木英喜

ひたむきに戦い続けた7年間。 「ここベアスタのピッチに立てることを夢見ています」

力強いドリブルと繊細なパスで攻撃を牽引したキム・ミヌ。今季限りで鳥栖を去る。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

「夢は叶う!」
 鳥栖のホーム最終戦セレモニーで、キャプテンのキム・ミヌは、この日のために少しずつ書き溜めた8分あまりの手紙を、涙で時折言葉につまりながら日本語で読み上げ、最後にこう叫んだ。
 
 彼は7シーズンを鳥栖で過ごした。兵役対応のため来季からKリーグに移籍するレフティは、様々な夢を実現させて、鳥栖というクラブの歴史に新たなページを刻み続けてきた。
 
 2010年1月17日に行なわれた新加入会見の場で「チームをJ1に上げることが個人的な目標。そしてファンに楽しさを与えること。点をひとつでも多く積み上げること」と通訳を通じて伝えた。
 
 この年の夏、彼はそれまで常連だった世代別代表に加え、韓国A代表にも選出される。鳥栖から現役で代表選手が選出されたのはクラブ初の出来事だった。そして、2年目にはクラブ初のJ1昇格の原動力となる。
 
 11月27日、J2で2位に位置する鳥栖はアウェーで勝点で並ぶ徳島との直接対決を迎える。この試合で貴重な先制点を挙げたのがキム・ミヌだった。この1点で主導権を握った鳥栖は3-0で快勝して、クラブ初のJ1昇格をほぼ手中に収めた。
 
 試合後、人目をはばからず涙を流すチーム関係者を横にキム・ミヌは「ファーストチャンスを決めることができて良かったです」と試合後にゴールを振り返り、「(J1昇格が)夢なのかな? と思ったくらいです」と笑顔を見せた。
 
 2012年、クラブにとっても、彼にとっても初となるJ1の舞台でも、彼はエースの豊田陽平らとともにチームの中心となり、初昇格クラブで最高順位となる5位に貢献。それ以降、チームをJ1に定着させるだけでなく、タイトルも狙えるチームの主力として力を発揮してきた。

 だが、鳥栖での7シーズンは良い出来事ばかりではなかった。加入した2010年には初のプロ生活を異国で迎えたことや各代表の試合が続き、秋にその疲労がピークに達して内臓疾患を患い、約6か月間ピッチから離れなければならなかった。
 
 また、2012年にはロンドン五輪代表入りが確実視されながらも、最終メンバーから外された。それでも彼は、「辛いけど、フル代表に選ばれるようにがんばります」と次なる夢を胸に鳥栖でプレーを続けてきた。

 彼が負けた後や怪我をした時に使う言葉のひとつに「仕方ないですね」がある。病気でプレーできなかった時や、ロンドン五輪代表から外れた時にもこの言葉を口にしていた。ネガティブな言葉として捉えがちだが、彼はこの言葉を自らのエネルギーに変えて挫折を乗り越え、ピッチでひたむきにボールを追い続けて、その夢を叶えてきたように感じる。
 
 冒頭の言葉の前に彼は、「私はまたいつの日か、みなさんの熱い応援を背にサガン鳥栖のユニホームを着て、ここベアスタのピッチに立てることを夢見ています」と言った。
 
 その日が来ることを鳥栖に関わったすべての人が夢見ている。だが、彼の鳥栖での戦いは終わっていない。リーグ最終戦の甲府戦、そして鳥栖にとって今季のタイトルへラストチャンスとなる天皇杯がある。この試合で、常に100パーセントの力でひたむきにボールを追いかける彼のプレーをその目に焼き付けてほしい。
 
取材・文:荒木英喜
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