スペイン人記者が明かす、久保建英のすべて<2>――卓球でも類稀な才能を発揮。本業ではゴールを決め続けた

2016年09月15日 サッカーダイジェスト編集部

得点嗅覚は同世代の子どもたちを凌駕していた。

2013年に日本で開催されたU-12ワールドチャレンジでは、バルセロナの優勝に貢献。チームメイトとの和気あいあいとした様子が印象的だった。(C) Getty Images

 2011年にバルサ入団が決まった久保は、バルセロナという町とクラブにすぐさま馴染んだ。もちろん初めての海外生活ではあったが、母親も海を渡りバルセロナで一緒に暮らしたため、生活面に大きな支障はなかった。久保の母親はカンテラ周辺で多くの人に好かれていた女性だった。ちなみに、久保の弟エイジもバルサスクールに入団している。
 
 誰もが驚かされたのは、その明晰な頭脳だ。彼はバルセロナに到着してからわずか2か月後には、すでにスペイン語を正確に操っていた。バルサの選手寮「マシア」(バルサの下部組織の総称でもある)でも、久保は瞬く間に人気者になった。
 
 彼がマシアの中で特別な存在だったことを示す、ひとつのエピソードがある。当時のマシアでは、久保と卓球で対戦するために、いつも長い列ができていたという。サッカーだけでなく、卓球でも類稀な才能を発揮した久保の"伝説"は、今も語り継がれている。複数の目撃談によれば、その腕前はサッカーと同様、スペクタクルそのものだったそうだ。
 
 もちろん本業のサッカーでも、彼は練習初日からカンテラを騒がせた。最初に加わったのは11-12シーズン、チームはアレビンC(11~12歳のカテゴリー)で、当時はアレックス・ゴメスが監督を務めていた。
 
 この世代は7人制のサッカーで、久保は3-2-1システムのFW。私の記憶に残っているのは、彼がとにかくゴールを決め続けていたことだ。得点嗅覚は同世代の子どもたちを凌駕しており、この年齢にしては精度と決定力がずば抜けて高かった。
 
 そうしたテクニカルな才能はすぐさま話題となり、各方面から高い評価を得たが、私がなによりも惹かれたのは、まだ小さな少年でしかなかった彼が内に秘めていた、類稀なフットボール・インテリジェンスだった。これにはもちろん戦術的な部分も含まれる。
 
 当時の久保はピッチ上の誰よりも状況判断が的確で、ゲームの全体像を把握していた。無駄なことはせず、常に効果的なプレーを、最適のタイミングで選択する。仲間との連係も意識し、チームプレーヤーとしての能力も素晴らしかった。同じチームには当時のカンテラ(下部組織)のディレクターを務めていた元スペイン代表のギジェルモ・アモールの息子、ギジェ・アモールもいたが、彼とも好連係を築いていたものだ。
 
 翌12-13シーズンは久保と、彼の所属していたバルサのアレビンA(アレビンはA~Dに分かれる)にとって最高のシーズンとなる。アレビンAは29勝1分けという圧倒的な成績で優勝。ひとつの引き分けは同じ町のライバルでもあるエスパニョールとのアウェーゲームだったが、久保に率いられたチームはシーズンを通じて大量278ゴールを挙げ、失点はわずか18だった。
 
 このチームは多くの名誉あるトーナメントでも優勝している。ロシアで行なわれた「Young Talents Cup」ではゼニトを3-0で、エルチェでの「Fair Playトーナメント」ではエスパニョールを4-1でそれぞれ下して優勝し、さらに「MIC」、「アロウサ・トーナメント」も勝ち取った。そして、リーガの20クラブの下部チームが参加するリーガBBVAにおいても、マルク・セッラ監督率いるチームは2-1でバレンシアを破って頂点に立ったのである。

◆プロフィール
久保建英(くぼ・たけふさ)
2001年6月4日、神奈川県川崎市生まれ。167センチ・59キロ。小学1年で地元の川崎市麻生区の少年少女を対象にした「FCパーシモン」に入団。小学3年からは1学年上の川崎フロンターレU-10でプレー。09年に横浜で開催された「FCバルセロナキャンプ」で脚光を浴び、11年8月にバルセロナの下部組織に加入する。チームの中心選手として活躍するが、その後、未成年の海外移籍を禁止するFIFA規約第19条に抵触するとして、バルサでの公式戦出場を禁じられると、15年3月に帰国を決断。FC東京U-15むさしに入団する。現在は飛び級で、FC東京U-18でプレー。U-17日本代表にも名を連ねる。
 
文:オリオル・ドメネク(ムンド・デボルティーボ紙)
翻訳:豊福 晋(サッカーライター)
 
※『サッカーダイジェスト』9月22日号(9月8日発売)より抜粋
 
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