「生き残るための戦いなんだなと」17歳でJデビュー、山田直輝が浦和で感じたプロの壁。偉大な先輩・田中達也からの“言葉の意味”が分からず…【インタビュー】

2025年08月02日 手塚集斗(サッカーダイジェストWeb編集部)

「自分がチームの中で1番だったことはない」

17歳でJリーグデビューを飾った山田。「自信満々だったことは1回もない」と当時を振り返る。(C)SOCCER DIGEST

 17歳でJリーグデビューを飾り、若くして日本代表にも選出されるなど、そのキャリアは順風満帆に見えた。しかし現在、FC岐阜でプレーする35歳のMF山田直輝は、「自信満々だったことは1回もない」と静かに語る。

 埼玉出身で浦和レッズのアカデミーで育ち、2008年に2種登録選手としてトップチームに登録。プロの世界に足を踏み入れ、今年で18年目を迎えた。

 彼のサッカー人生には、常に自身の先を行くライバルの存在があった。世代を代表する才能と称されながらも、本人は常に謙虚な挑戦者であり続けた。プロ入り直後に味わった周囲との意識の違い、偉大な先輩からかけられた言葉の意味。華やかな経歴の裏で、山田が何を感じ、どう乗り越えてきたのか。その歩みを、本人の言葉とともに振り返る。※第1回(全3回)

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 幼少期から、山田の周囲には常に才能豊かな選手たちがいた。それは彼に「天狗になる」暇を与えず、絶えず向上心を掻き立てる環境だった。

「周りには常に僕より先を行っていた人たちがいたので」。そう振り返る山田は、小学生時代のエピソードを明かす。浦和地区の選抜チーム、FC浦和で背番号を挙手制で決める際、父親からは「いつでも10番をつけろ」と言われていたにもかかわらず、チームメイトだった武富孝介(元柏、湘南、浦和ほか)の存在を前に、自ら10番に手を挙げることはできなかったという。

「10番は武富孝介だって。僕はもう上に見ていた」

 その環境はユース年代になっても変わらない。「(浦和の)ジュニアユースにいた時は、(高橋)峻希もいたし、永田拓也もいたし。常に追いかけないといけない、自分が負けてはいけない環境にいたので、自信満々だったことは1回もないですね。僕のサッカー人生は」と言う。

 周囲から評価されるなかでも、おごることなく自分を見つめられたのは、この環境があったからこそだと分析する。

「本当に自分がチームの中で1番だったことはないと思っています。そういう環境だったからこそ、僕は伸びていけたんだろうなというふうに感じています」

 常に高みを目ざさざるを得ない状況が、山田直輝というフットボーラーの礎を築いた。
 

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