名物プロモ部部長の薫陶を受け
選手と喜びをともにする田代。カナダで充実した日々を送る。(C)Pacific FC
S級ライセンス(現在はProライセンス)取得への最後のステップである海外研修において、中村憲剛の受け入れ先として話題になったのが、カナディアンプレミアリーグ(カナダ1部)のパシフィックFCだ。川崎フロンターレとも縁のあるチームだが、前編で紹介した元川崎フロンターレスタッフの高尾真人(株式会社A to代表取締役)とともに興味深い存在がいる。
こちらもかつて川崎のプロモーション部で働いていた田代楽である。
現在は風間八宏監督らとともに、南葛SCで辣腕を振る"名物プロモ部部長"天野春果の川崎時代の後輩に当たる人物で、昨年末の中村憲剛の引退試合でも、「中村けんご 最後の街頭演説」など様々なイベントを企画してきた。その実績だけで、どんな人物なのかイメージが付きやすいだろう。
そしてさらに"ぶっ飛んでいる"のは、川崎で様々な企画を手掛けるなど順調にキャリアを積んでいたなか、いきなりツテもなく渡米を決意したことである。
「2023年のJリーグの開幕戦、川崎と横浜の一戦を最後に日本を離れ、何も分からないまま、アメリカに向かいました。今はスタンボー華選手、遠藤純選手、守屋都弥選手が所属するロサンゼルスのエンジェル・シティFCというクラブの事務所のドアを到着わずか3時間後にいきなりノックしたのを覚えています(笑)。今考えれば、バイタリティがあったなと(苦笑)。当時、友だちのツテをいくつか重ねてようやく遠藤(純)選手に辿り着いたのですが、他に頼れる人は誰もおらず。ただの観光客のようなものでした。
でも、そこから3か月ほど、エンジェル・シティFC、そしてオーナーが一緒だったLAFC(MLS所属)でボランティアをさせてもらったり、ブランディング部門のお手伝いなどをさせてもらっていました。
ただビザの関係でずっといるわけにはいかず...。そこで高尾さんからパシフィックFCのスポーツダイレクターに紹介できるよと連絡をいただき、ビクトリアに飛んだという形でした。それが23年の7月。いくつもの企画をプレゼンし、そのうちのひとつの映像制作の部門が足りていないということで契約をしてもらいました」
綱渡りのような道。田代をそこまでして海外挑戦に駆り立てた背景はなんだったのか。
【画像】セルジオ越後、小野伸二、大久保嘉人、中村憲剛ら28名が厳選した「J歴代ベスト11」を一挙公開!
こちらもかつて川崎のプロモーション部で働いていた田代楽である。
現在は風間八宏監督らとともに、南葛SCで辣腕を振る"名物プロモ部部長"天野春果の川崎時代の後輩に当たる人物で、昨年末の中村憲剛の引退試合でも、「中村けんご 最後の街頭演説」など様々なイベントを企画してきた。その実績だけで、どんな人物なのかイメージが付きやすいだろう。
そしてさらに"ぶっ飛んでいる"のは、川崎で様々な企画を手掛けるなど順調にキャリアを積んでいたなか、いきなりツテもなく渡米を決意したことである。
「2023年のJリーグの開幕戦、川崎と横浜の一戦を最後に日本を離れ、何も分からないまま、アメリカに向かいました。今はスタンボー華選手、遠藤純選手、守屋都弥選手が所属するロサンゼルスのエンジェル・シティFCというクラブの事務所のドアを到着わずか3時間後にいきなりノックしたのを覚えています(笑)。今考えれば、バイタリティがあったなと(苦笑)。当時、友だちのツテをいくつか重ねてようやく遠藤(純)選手に辿り着いたのですが、他に頼れる人は誰もおらず。ただの観光客のようなものでした。
でも、そこから3か月ほど、エンジェル・シティFC、そしてオーナーが一緒だったLAFC(MLS所属)でボランティアをさせてもらったり、ブランディング部門のお手伝いなどをさせてもらっていました。
ただビザの関係でずっといるわけにはいかず...。そこで高尾さんからパシフィックFCのスポーツダイレクターに紹介できるよと連絡をいただき、ビクトリアに飛んだという形でした。それが23年の7月。いくつもの企画をプレゼンし、そのうちのひとつの映像制作の部門が足りていないということで契約をしてもらいました」
綱渡りのような道。田代をそこまでして海外挑戦に駆り立てた背景はなんだったのか。
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「ひとつは日本的な組織から抜け出し、"外国人になってみたい"という想いがありました。僕もひとりの消費者ですが、様々な企画を考えるうえで、消費者の方々の気持ちをより理解しないといけないと思ったんです。例えばサッカーは様々な国籍の人が見にくると思いますし、観光地として機能する街における大きな魅力のひとつだと感じます。そのなかで一度、外国人の感覚、考えを理解したかったんです。あとは単純に日本人として日本語しか使ってこなかったので、新たなチャレンジをしたいと飛び込んでみました。
当時は26歳になりたての時。間違いなく人生で一番のチャレンジだったと思います。英語は社会人になってからオンライン英会話で学び始めました。ただ、海外で働きたいという想いが強かったわけでなく、ひとり暮らしを始めて、夜、暇になったから勉強し始めたという形で...。
川崎を辞める時は、当時、年間で4、5本の自分の企画を持ち、自分の好ましい文脈で話題にもなっていたので、『それを手放して無職になるのはもったいないんじゃないか』という声はかけていただきました。川崎の同僚には『上手くいかなかったら帰っておいで』と声をかけてもらっていましたね」
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