フットボールジャーナリズムにはびこるナンセンスな日常【サイモン・クーパーが最後に綴る物語|中編】

2024年03月31日 サイモン・クーパー

混雑した通勤電車のような地獄が

スポーツライターの多くが求めているのは、選手や監督と顔見知りになり、親しい関係になることだ。(C)Getty Images

 時が経つにつれ、僕は常にスポーツだけを書くことに疑問を抱くようになってきた。スポーツというのはあまりにも限定された、小さなフィールドだからだ。すでに20代前半の頃から、監督の解任劇やそのとき話題のスター選手、ビッグクラブの驚きの敗退など、日常茶飯事ともいえるフットボールの出来事について、あまり惹かれなくなっていた。

 僕は自分の人生で、もっと大切なことを書き残したかった。なぜ豊かな人と貧しい人が出てくるのだろう。いったいなぜあの戦争は起きたのか。民主主義や社会主義について。そんな思いを胸に、僕は1995年から英紙『フィナンシャル・タイムズ』と仕事を始める。同紙はビジネスと政治専門のメディアで、当時はスポーツ欄すらなかった。

 僕がジャーナリズムの世界へ足を踏み入れたタイミングは最悪だった。フィナンシャル・タイムズ紙に書きはじめたのが、ジャーナリズム栄光の時代が終焉を迎える頃だったからだ。ちょうど95年頃までは人々に新聞を購入する習慣というものがあった。

 ニュースへの興味云々は別として、それがあたかも当然の行為であるかのように、人は日々新聞を手にしたものだ。株価を知るためにも紙面を確認しなければならなかった時代だ。ひいきのスポーツチームの結果確認、テレビの番組表としても欠かせなかった。

 新聞だけではない。インターネットが台頭する前まで、人々は雑誌にエンターテイメントを求めていた。

【記事】有名選手も僕やあなたとそれほど変わらないひとりの人間である【サイモン・クーパーが最後に綴る物語|前編】
 
 95年は世界的なウェブブラウザ『ネットスケープ』がローンチされた年だ。情報は突然、無料で入手できるものに姿を変えてしまった。新聞業界は不況に陥り、それは現在も続いている。おそらく幸運なことなのだろう。僕はそんな中でふたつのキャリアを同時進行していた。昼間は真面目な(そして時につまらない)原稿をフィナンシャル・タイムズに書き、夜はフリーランスでフットボールの記事を書くという具合にだ。

 2002年、フィナンシャル・タイムズは僕をスポーツ担当に配した。僕の意向とは逆に、フルタイムのスポーツライターとなったのだ。その時、絶対にこうはなるまいと決めていたスポーツライターの姿があった。

 それまでに僕は多くの同業者を見てきた。スポーツライターの多くが求めているのは、ひと言に集約できる。「アクセス」だ。選手や監督と顔見知りになり、親しい関係になることだ。

 以前はロッカールーム前、現代ではミックスゾーンで記者たちはシャワーを終えた標的を待ち構える。記者同士が押し合いながら自らの場所を確保する、縄張り争いのような戦いがそこにはある。そして選手が顔を出せば、一斉に叫ぶ。

「ジョー、ひと言お願いします! ジョー!」

 ジョーが立ち止まるか、あるいは記者に友好的に呼び寄せられれば、混雑した通勤電車のような地獄が始まる。

 ジョーの顔に録音機のマイクをできるだけ近づけることが彼らの仕事だ。そしてジョーは試合を振り返り、何度も聞いたことのあるような話を繰り返す。
 

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