有名選手も僕やあなたとそれほど変わらないひとりの人間である【サイモン・クーパーが最後に綴る物語|前編】

2024年03月31日 サイモン・クーパー

最初の原稿料は30ポンド

初めて書いたのはこのフリット(右)に関する文章だった。(C)Getty Images

 1986年の夏をいまも時々思い出す。

 僕は16歳で、漠然とした未来を前にした80年代の多くの若者と同じように、特にやることも決められないままに日々を過ごしていた。

 幼少期を過ごしたオランダから移り住んできたばかりで、ロンドンのことは何も分からず、友達もほとんどいなかった。学校が長い休暇に入ると家の中を意味もなく歩き回っては、ただ時間をつぶしていた。僕は孤独なティーンエージャーだった。

 そんな息子を見かねたのだろう。ある日父がこう言った。

「フットボールの文章でも書いてみたらどうだ?」

 父は文化人類学の教授で、僕からしてみればたいそう高尚な論文を複数の雑誌に寄稿していた。

 あの頃の僕はフットボールの虜だった。雑誌を隅から隅まで読んでいたこともあり、オランダのフットボールに関する知識量は国外のどんなジャーナリストよりも豊富だった。

 父のアドバイスを受けた僕は試しに当時のオランダの若手についての文章を書いてみた。選手の名はルート・フリット。当時PSVアイントホーフェンでプレーしていた偉大なるフリットが、僕にとって初めての執筆対象となったわけだ。

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 その文章を書いた原稿用紙を丁寧に封筒に入れ、『ワールドサッカー』誌に郵送した。

 編集部から便りが届いたのは数日後のことだ。僕の文章を掲載記事として採用するという連絡だった。ワールドサッカーは原稿料として30ポンドを提示してきた。80年代のティーンエージャーにとってはとても大きな額だ。インターネットがすべてを変える前、ジャーナリズムの支払いが良かった時代というのは確かに存在したのだ。

 そうして僕はワールドサッカー誌に寄稿するようになった。フリットがバロンドールに輝いた87年には、オランダに関する連載コラムを月イチでもたせてくれた。それからというもの、僕はプロのジャーナリストとしてフットボールについての文章を書き続けている。『ワールドサッカーダイジェスト』誌には2009年から寄稿しているので、まもなく15年だ。ひとまずはこれが定期連載としては最後となる。
 

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