【今日の誕生日】3月16日/信念を曲げずに世界を制した名将――ビラルド(元アルゼンチン代表監督)

2016年03月16日 サッカーダイジェストWeb編集部

気まぐれな天才選手を、いつでも、いつまでも信頼し続けた。

マラドーナ(右)を最も活かせるチームを作ったことで、ビラルド(左)にも大きな収穫がもたらされた。 (C) Getty Images

◇カルロス・ビラルド:1939年3月16日生まれ アルゼンチン・ブエノスアイレス出身
 
 30年前の夏、メキシコで魔法のプレーを連発したディエゴ・マラドーナ。悲願のワールドカップ優勝を果たし、彼はサッカー界の新たな王として君臨することとなった。
 
 そんな天才に全てを託し、彼が最も活きるメンバー選考、チーム作りを行ない、見事にアルゼンチンを世界一に導いたのが、監督のカルロス・ビラルドだ。
 
 選手時代はラフプレーも厭わない「エース殺し」の異名を持つ守備的MFとして、エストゥディアンテスの南米3連覇(1968~70年)や68年の世界一にも貢献。70年に現役生活を終え、翌年からは指導者に身を転じる。
 
 古巣での指揮を皮切りに、サンロレンソ、デポルティボ・カリ、コロンビア代表を経て、83年にアルゼンチン代表監督に就任。以降、90年まで采配を振るい続けた。
 
 堅実なサッカーを信奉する彼には、就任当初から大きな批判が寄せられたが、とりわけ攻撃サッカーを愛する前代表監督のセサル・ルイス・メノッティは、ビラルドをことあるごとに口撃。以降、アルゼンチンはビラルド派とメノッティ派で二分され、国中の至る所で舌戦が繰り広げられた。
 
 そのスタイルを「守備的で退屈」と揶揄されたビラルドだが、彼には必殺の武器があった。それがマラドーナだ。ひとりで全てを可能にしてしまう彼にビラルドは攻撃を一任し、またキャプテンマークも与えて責任感を持たせることで、完全なマラドーナのチームを構築していった。
 
 天才との二人三脚は、86年W杯直前まではスムーズに事が進まず、またマラドーナが直前に手術を敢行していたこともあり、大会前、アルゼンチンは優勝候補には含まれていなかった。しかし、初戦でマラドーナがひとりで相手を翻弄して以降、全ては好転していった。
 
 そして西ドイツとの決勝戦を制した後、エスタディオ・アステカには「ペルドン(ごめんなさい)、ビラルド、グラシャス(ありがとう)」の横断幕を掲げてピッチを駆け回るファンの姿があった。大会前まで、猛烈にビラルドを叩いていた者たちだ。
 
 以降もビラルドはマラドーナを信頼し続け、怪我をしようが、代表の練習や試合をドタキャンしようが、この気まぐれな天才を待ち続けた。90年大会では、その守備的なスタイルと不安定な戦いぶりが再び批判を浴びながらも、アルゼンチンは再び決勝の舞台に立った(ドイツに0-1で敗北)。
 
 この大会後に代表監督の座を退き、以降は国内外のクラブ、代表チームを率いたビラルド。セビージャ監督時代は再びマラドーナとタッグを組み、彼が代表監督に就任した際には、GMという立場でサポートし続けた。
 
 信念を曲げず、最後に栄光を手にしたビラルド。同じケースは、82年W杯のイタリアでも見られた。当時のエンツォ・ベアルツォット監督は、2年間の出場停止が明けたばかりの点取り屋パオロ・ロッシを起用し続けたことで、国中から大非難を浴びた。
 
 1次リーグ3試合を全て引き分け、得失点差で辛うじて2次リーグ進出という不甲斐ない戦いぶりが、国民の怒りをさらに助長したが、ロッシは2次リーグの大一番、ブラジル戦で突如覚醒、ハットトリックを達成して番狂わせを起こす。
 
 そして準決勝ポーランド戦で2点、決勝の西ドイツ戦で先制ゴールを挙げるなど、計6得点を記録してイタリアを世界王者に導き、自身は大会得点&MVPにも輝いた。彼を最後まで信じ続けたベアルツォット監督にとっても、大きな勝利であった。
 
 また、86年大会のアルゼンチンのように優勝候補ではなく、風当たりが厳しい状態から世界を制したケースとしては、予選で苦しんだ94年大会、2002年大会のブラジルなどが挙げられる。それぞれのチームを率いたカルロス・アルベルト・パレイラ、ルイス・フェリペ・スコラーリの喜びは格別だったに違いない。
 
 常に我慢を強いられる監督という職業。その苦労が報われる喜びは、選手が感じる以上のものなのかもしれない。
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