ミャンマー戦は日常より遥かに緩い戦場に...。主力を温存するなら、せめて欧州からサウジへ直行させれば良かった

2023年11月17日 加部 究

ストレスのない圧勝劇

日本はハット達成の上田(9番)や1ゴールの鎌田(8番)らの活躍でミャンマーに5発完勝を飾った。(C)SOCCER DIGEST

[W杯アジア2次予選]日本5-0ミャンマー/11月16日/パナソニックスタジアム吹田

 8日前のチケット完売情報を見れば、日本代表のベストメンバー招集は興行戦略的には大成功だったのだろう。

 いつになく体調不良者や故障者が続出したのも、裏返せば欧州の日常での日本選手たちの活況ぶりを物語り、ミャンマー戦はさすがに多くのスタメン候補はベンチに座ったままだったが、ストレスのない圧勝劇に詰めかけたファンは酔いしれた様子だ。

 森保一監督も、所属クラブで苦戦気味だったり、代表活動で空白が出来つつあったりする選手たちを心置きなくピッチに送り出し、ハットトリックの上田綺世やミドルシュートを突き刺した鎌田大地などは少なからず手応えを感じることが出来たのかもしれない。

 また、珍しく初招集の佐野海舟を筆頭に、E-1選手権しか代表歴のない細谷真大、渡辺剛らにもチャンスを与え、最後はほぼボールが飛んで来る可能性のないなか、GK前川黛也もデビューさせた。

 22歳の佐野は、いきなり果敢なインターセプトを見せ、躊躇なくミドルシュートにもチャレンジしたが、思えば若いJリーガーにとってもそれは日常より遥かに緩い戦場だった。
【動画】ミャンマー戦後、上田夫婦の仲睦まじいやり取り!
 ミャンマーと聞いて、オールドファンには感慨深い部分もある。1964年東京五輪で望外のベスト8進出を遂げた日本にとって、次の野望はアジア制覇だった。31歳で大舞台を終えた主将の八重樫茂生(故人)などは引退を決めていたが、代表スタッフから2年後のアジア大会で勝つために現役継続を懇願され、翻意している。

 だが、初優勝の大願を抱いて臨んだバンコク開催の大会は、酷暑のなか、10日間で7戦と常識外れの過密スケジュール。結局、準決勝でイランに0-1と惜敗して3位に終わる。この時、決勝戦でイランを下して優勝を飾ったのが当時のビルマ(現・ミャンマー)だった。

 ちなみに日本代表は、その2年後にはメキシコ五輪で銅メダルを獲得し、1970年には勢いも得て再度アジア王座を目ざすが、準決勝で韓国に延長戦の末に1-2で敗れ敗退。一方ビルマは、グループリーグで日本に敗れていたが、決勝まで勝ち進み、韓国とスコアレスドロー。両チームの選手たちに金メダルが渡り、ビルマは連覇を達成したのだった。

 こうして現ミャンマーは、当時の日本代表選手たちに難敵として強く印象づけた。しかし、現在の代表選手たちがキャリアを終える頃、どれだけの選手たちが吹田でのミャンマー戦を記憶に留めているだろうか。
 

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