「小学生の時は感覚でプレーしていましたが...」社会人リーグから1年半でJ1に辿りついた新潟FW長倉幹樹の幼少期【インタビュー前編】

2023年10月13日 岩澤凪冴(サッカーダイジェスト編集部)

「興梠選手を近くで見られたのは大きかった」

今年8月に群馬から新潟への個人昇格を果たした長倉。(C)J.LEAGUE

 Jクラブからオファーが届かず悔しさを味わった大学卒業時から、わずか1年半。社会人リーグの東京ユナイテッドFCからJ2の群馬を経て、J1の新潟まで驚くべきスピードで這い上がった長倉幹樹。目の前の勝利にこだわり、結果を残し続けてきたアタッカーが、激動の2シーズンを含む自身のキャリアと躍進の理由を語る。

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 埼玉県さいたま市浦和区。日本屈指のJクラブ・浦和レッズを有する土地に生まれた長倉幹樹は、兄の影響で5歳からボールを蹴り始めると、地元の多くの少年少女と同様、サッカーに熱中する。

「ストイックだったわけではないですが、小学生の頃は放課後にほぼ毎日、学校でサッカーをしていました。当時はあまり考えず、夢中でやっていましたね」

 純粋に競技を楽しんでいた小学校低学年時代から、クラブチームに加入したことで毎日の練習で忙しくしていた高学年時代を経て、長倉は同年代の中で目を引く存在に成長。中学に進学するタイミングで、スカウトされて参加したセレクションに合格し、浦和Jrユースに加入する。

「中学生になった時に、周りよりも身体が小さくて。小学生の時は感覚でプレーしていましたが、それだけではダメだと感じて、考えてプレーし始めたんです。

 当時から攻撃的なポジションだったので、相手の最終ラインやゴール前での駆け引きと動き出しを工夫し、成長できました。浦和のジュニアユースで身に着けた頭を使うプレーが、今の自分の武器になっています」
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 地元のトップクラスの選手が集まる浦和の下部組織。加入当初は試合に絡めなかったが、フィジカル面の弱点を駆け引きの巧さで補い、3年間で徐々に存在感を高めていった。小柄なFWとしての戦い方は、当時のトップチームのエースからを学んだのだという。

「興梠慎三選手のプレーを近くで見られたのは大きかったです。ストライカーとしての動き出しや駆け引きを見て吸収しようとしていました」

 戦い方を学び、少しずつ自分の居場所を見い出したが、最後まで常にスタメンに選ばれる立ち位置には至らなかった。技術面で成長したが、身体的に早熟な選手が有利なのがこの年代の悩みの種と言えるだろう。

 それでも長倉は、浦和ユースへの昇格を掴み取る。

「スタメン組でも昇格できなかった選手もいました。将来性だったり、コーチの好みなどもあると思いますが...。ユースに上がれたのは、運が良かったとしか言えません」

 苦しみながらも昇格した浦和ユースで、長倉はもう1段階成長する。

「プロ入り前までで自分が一番伸びたと感じるのは、高校生(浦和ユース)の時です。ジュニアユース時代と同じく最初はレベルの差に戸惑いましたが、身体の成長が周囲に追いついて、武器の頭を使うプレーにフィジカルの強さが加わりました。戦い方の幅が広がって、徐々に出場機会をもらえるようになったんです」

 浦和ユースでは重要な出会いもあった。当時、監督を務めていた大槻毅氏だ。のちにプロの舞台で再開を果たす恩師と過ごした3年間は、かけがえのない時間だった。

「厳しさはありますが、頻繁にコミュニケーションを取ってくれます。自分の長所を理解してくれて、常にモチベートしてくれました」

取材・文●岩澤凪冴(サッカーダイジェスト編集部)

※第1回終了(全3回)
※『サッカーダイジェスト』2023年10月号(9月8日発売)より転載。

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