【都並敏史が語るJ30周年 #2】楽しみなタレントはいるが…左SBの人材難に憂い「スペシャルコーチが必要な技術や戦術を教えたほうがいい」

2023年04月20日 元川悦子

『前では難しい』と判断し、左SBに立候補

代表の左SBで一時代を築いた長友。絶対的な存在となりえる後継者は現われるのか。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト写真部/JMPA代表撮影)

 Jリーグ30周年を記念した特別連載インタビュー。現在はブリオベッカ浦安で監督を務める元日本代表DFの都並敏史が登場。シリーズ第2回をお届けする。

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 かつてヴェルディ川崎(現・東京V)などでプレーした都並敏史が、Jリーグ開幕の1993年に直面した最もショッキングな出来事が、「ドーハの悲劇」だろう。

 94年アメリカ・ワールドカップ(W杯)出場権獲得まであと一歩まで迫りながら、イラク相手の後半ロスタイムに同点弾を浴び、世界舞台を逃すという悪夢……。これは、当時32歳の都並にとって、W杯出場の夢が潰えた瞬間でもあった。

 彼が怪我で試合に出られない状況だったことも、日本の命運を大きく左右した。本人は足が壊れてもピッチに立とうと最後まで粘った。この飽くなき情熱が"狂気の左サイドバック"と称されるゆえんである。

 都並はそれだけ重要な役割を担っていたということ。実際、1980~95年にかけて代表78試合に出場した絶対的な左SBに取って代わる存在はそうそう出てこなかった。

 彼はしみじみと言う。

「我々の時代は指導者から細かい技術を教わることもなかったので、自分なりに技術を磨き、個性を作ってきました。

 僕自身も元々は攻撃的な選手でしたが、ラモス(瑠偉)さんのような上手い選手を間近で見て、『前では難しい』と判断。自ら左サイドバックに立候補し、攻守のバランスを学んでいきました。

 試合中にラモスさんから『都並、もっと中に絞れ』と怒鳴られたのも一度や二度じゃなかった。そういうトライ&エラーを繰り返しながら、自分の左サイドバック像を作っていったんです」
 
 その都並が代表を離れたあとは、相馬直樹、駒野友一らがW杯に出場した。が、圧倒的存在が現われるのは、2008年まで待たなければならなかった。それが、明治大からFC東京入りしたばかりの長友佑都(FC東京)であった。

 2008~22年にかけて代表に居続け、4度のW杯に出場し、遠藤保仁に続く142試合という偉大な記録を残している長友の存在価値は、あまりにも大きかった。

 大きく言うと、約40年間の日本代表における左SBは、都並・長友の2人で支えたと見ることもできるだろう。

「長友も自分と同じで、左サイドバックにコンバートされた選手。上下動できるパワーと対人能力に秀でていて、それを武器に海外でも活躍したと思います。特にインテルに行ってから、強度や1対1に磨きがかかった。内田(篤人)や酒井宏樹(浦和)にしてもそうですけど、対人の強さだけでなく、自分が止められない場合にはカバーリングに来させる的確な指示や統率力も重要。そういう力も彼にはあったと思います」と、都並も長友を高く評価する。

 そういう頭抜けた選手がなぜ日本ではなかなか出てこないのか。「左SBの人材難」と叫ばれる状況が長く続くのか……。それには都並にも思うところがあるという。

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