戦術が“オタク化”する日本。元神戸監督リージョは「トランジション」すら好まなかった【小宮良之の日本サッカー兵法書】

2020年10月04日 小宮良之

「テクニックのある選手」という表現にも頭を傾げる

戦術家と知られるリージョ。現在はマンチェスター・Cのコーチとしペップを支えている。(C) Getty Images

 昨シーズンはヴィッセル神戸で監督を務め、現在はマンチェスター・シティでジョゼップ・グアルディオラの右腕としてコーチをしているファン・マヌエル・リージョと、筆者は何度かサッカー論を語り合ったことがある。神戸のタワーマンションに招かれ、気になっている選手のビデオを大画面テレビモニターで見ながら、マテ茶を回し飲んで、3時間があっという間に過ぎた。

 リージョは世界的に戦術家として知られる。グアルディオラに師匠として心酔されていることは有名な話だし、その理論は世界でも並ぶものがないと言われる。言わば、戦術マスターだ。

 しかし一つ言えるのは、リージョのサッカーへの熱はすさまじいが、少しも難しい言葉を使わないという点である。

 日本では戦術がオタク化しつつある。難しい言葉を平気で使い、説明したような空気になる。用語を学ぶのは悪いことではないが、本質を理解しなければ、それは空っぽも同然の空論だ。

 リージョは、「テクニックのある選手」という表現にだけでも、頭を傾げながら、「もっと丁寧な説明が必要で、好きではない」と首を横に振った。テクニックがある、とは一体何なのか?それは便宜的で、抽象的な表現と言える。神戸の選手たちならわかるはずだが、彼が使った言葉は極めて哲学的だが、同時に平易だったはずだ。

 彼は戦術という仕組みそのものに没頭しない。仕組みを動かすというのが人間だと知っている。あくまで、人間対人間で心に響かないと戦術として役立たない。それには、どこにいたら優位になるのか、どうしたら優位になるのか、例えば攻撃しているときの守備を管理したポジション取りや、ボールを運ぶことで視界が変わる、という判断になるわけだが、彼はとことん現場主義だ。
 
 トレーニングで戦い方を刷り込ませ、プレーに変化を与えられるか――。それが彼の戦術の正体だろう。体験的で、机上の空論ではない。

「トランジション」

 例えば、その言葉も好んで用いなかった。それが物事をぼかす可能性があるからだろう。

 リージョのようにトップレベルの戦術家にとって、トランジションは嘘を含んでいる。サッカーにおいて、あるのは「攻める、守る」、その二点のみである。トランジションは、その中間点としての事象に過ぎない。その時の切り替え、という反応では戦術的には遅すぎる。攻めながら守るポジションを取り、守りながら攻める、という「連続性」にこそ、戦術の本質はあるのだ。

 戦術――。

 その意味は、局地的な戦いを有利に動かすための仕組みを指している。それをわかりにくい単語にせず、複雑化もせず、丹念に取り組むこと。それこそ、戦術に囚われない術なのだろう。

文●小宮良之

【著者プロフィール】
こみや・よしゆき/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。2001年にバルセロナへ渡りジャーナリストに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写する。『選ばれし者への挑戦状 誇り高きフットボール奇論』、『FUTBOL TEATRO ラ・リーガ劇場』(いずれも東邦出版)など多数の書籍を出版。2018年3月には『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューを果たした。
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