【J新指揮官の肖像】甲府・樋口靖洋監督|「魅力あるサッカー」を追求する叩き上げの指導者

2015年02月27日 渡辺 功

育成年代の指導を通して得られた経験が指導者としての武器に。

わずか5年で選手キャリアを終え、指導者に転身後は30年以上一貫して現場に立ち続けてきた。(C) SOCCER DIGEST

 風間八宏、都並敏史、鈴木 淳、大木 武、戸塚哲也など、監督経験者がズラリと顔を揃える1961年生まれ。いわゆる「昭和36年組」のひとりだが、選手としての実績はほとんどない。強いて挙げるならば、四日市中央工高1年時、2歳年上の兄・士郎(現・同高サッカー部監督)たちと、全国選手権で準優勝したくらいだ。
 
 日産自動車では怪我に泣き、リーグ戦の出場は2試合のみ。5年目のシーズンを終えた時、当時の加茂周監督から「お前はもう無理や」と、引退を勧告される。
 「もう1年現役をやらせてくださいと抵抗したんですが、加茂さんに『アカン』と一蹴されて。来年から新しく小学生のサッカースクールを立ち上げるから、お前はそれに加われと言われたんです」
 
 85年、日産サッカースクールの発足と同時にコーチへ就任したが、すべては手探り。生徒募集のため「サッカー大好き少年集まれ」と書かれたビラを配るところから始まったスクール事業は、「キャプテン翼」ブームも手伝い、スクール生が300人を超える大所帯になる。
 
 翌年には中学生向けのスクールが開校、やがてユースチームを設立と、規模が大きくなるたび、担当する人数も年代も増大。幼稚園児、小中高生、女子と、あらゆるカテゴリーの現場に立ち続け、指導した選手は1万人を超えるという。そのなかには寺田周平、中村俊輔、石川直宏など、のちのJリーガーも数多くいる。
 
 「こちらが同じメッセージを送っても、それに対する反応は十人十色なんです。様々な年代、いろんなタイプの人間と出会えたことで、数え切れない反応を見られた。その経験こそが指導者としての自分の武器、いや武器にしないといけないと思っています」
 
 99年から横浜のトップチームのコーチに就任。子どもたちの指導に還元するつもりでS級ライセンスを取得したところ、受講時の評判を聞きつけた山形から監督に招聘される。以降、大宮、横浜FCと、途切れることなく監督業を歴任。2010年からは古巣に戻り、2年間コーチを務めたのちに監督へ。14年元日には天皇杯を制し、クラブに9年ぶりとなるタイトルをもたらした。

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