「日本行きで合意していた」「でもミランが…」日韓W杯“伝説の優勝戦士”が横浜入団寸前だった過去を告白!

2020年05月07日 サッカーダイジェストWeb編集部

セレソンの偉大なるキャプテンが語るJ参戦

セレソンのキャプテンとしてチームを支持されたカフーが、日本参戦の可能性があった過去を語った。 (C) Getty Images

 ディエゴ・フォルランやルーカス・ポドルスキ、アンドレス・イニエスタ、フェルナンド・トーレス、ダビド・ビジャら昨今のJリーグでは、海外の大物スターの参戦が目立っている。

 17年前にも、日本で巻き起こった空前のサッカーブームに乗っかり、J参戦を決めかけていたビッグネームがいた。元ブラジル代表DFのカフーだ。

 無尽蔵のスタミナとセレソンのラテラウ(サイドバック)らしい積極果敢な仕掛けを武器に"右サイドの支配者"と恐れられたカフー。2002年の日韓ワールドカップでは主将として個性派軍団を束ね、見事に世界制覇に貢献した。

 このブラジル代表の歴代最多出場記録(142試合)を持つ偉大なるキャプテンが、2003年にミランへ加入する直前に横浜F・マリノスと合意に至っていたことを告白した。現地時間5月2日にイタリア人ジャーナリストのジャンフランコ・メンガ氏と行なったインスタグラムのライブ配信で、次のように語っている。

「私は2003年の夏に日本の横浜と合意していた。そして日本へ向かう15日前にミランからのオファーが届いたんだ。すぐに『それは素晴らしい』と返事をしたよ。私は32歳だったが、カルロ・アンチェロッティが求めており、連絡するように直接クラブに言ったと聞いた。私は『大丈夫だ。問題はない』と答えたよ」
 

 その時、横浜とはサインを交わすだけとなっていたカフーは、すぐさま日本へ電話をかけたという。

「私はすぐに横浜に電話し、『世界で最強のチームのひとつであるミランが私を求めてくれている』と説明した。あの当時に、日本行きのためにロッソネーリ(ミランの愛称)にノーと言うことは誰もできなかったはずだ。

 そして、横浜との契約をキャンセルして、ミランにサインした。最初の契約は1年間のみだったが、最終的には2008年まで在籍できた。それは間違いなく正しい選択だったね」

 ミランで2003-04シーズンのスクデット獲得や2006-07シーズンのチャンピオンズ・リーグ制覇に貢献したカフー。もし日本に来ていたら、どのようなプレーを見せていただろうか――。

構成●サッカーダイジェストWeb編集部
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