「その時代では革新的だった」「幸運をもたらした」 ブラジル代表のユニホームを“黄色”にした偉人、83歳で他界

2018年11月18日 サッカーダイジェストWeb編集部

100種類以上もの草案の中で生み出された伝説のデザイン。

いまや当たり前のように感じるブラジル代表の黄色いユニホームだが、その当時は革新的かつ斬新なものだった。 (C) Getty Images

「ブラジル代表と言えば、黄色」

 このイメージを世界に定着させるきっかけを作った偉大な男が旅立った。

 現地時間11月15日、ブラジル代表のユニホームを黄色に変更したブラジル人デザイナーのアウジール・シュレーさんが、皮膚がんのために亡くなった。83歳だった。

 シュレーさんの名が全国区となったのは、1953年のことだ。

 当時、白色のユニホームを採用していたブラジルは、その2年前に開催された母国開催のワールドカップで、決勝リーグ最終戦のウルグアイに敗れて初優勝を逃した。

 この「マラカナンの悲劇」と呼ばれた悪夢を払拭すべく、ユニホームの刷新を図り、地元紙『Correio da Manha』が、新たなデザインを選ぶコンペを開催したのだ。

 これに当時、新聞社でゴールをイラスト化する仕事に従事していたシュレーさんも応募した。

 18歳だった同氏は、『Correio da Manha』から提示された「選手に誇りと情熱を抱かせるため、国旗に採用されている4色(緑、黄、青、白)を使うこと」という条件を満たすべく、シャツを黄色と緑、パンツを青、そしてソックスを白にし、「その時代では革新的だった」(ブラジル・メディア『Globo』)というデザインで見事にパスしたのである。

 シュレーさんは『Globo』の取材に対して生前、このデザインを生み出した時のことを次のように振り返っていたという。

「100種類以上の組み合わせを考えました。そのなかで、黄色をウェアにしなければいけないと思い立ったんです。ルール的に、ユニホームにはカラーバランスが必要とされていましたから。

 なので、私は、緑と黄色をシャツに使い、青はパンツ、そして白いソックスにしたのです。ブラジル代表はその後、1954年のスイスW杯では失敗したけど、結局、このユニホームが国家的なシンボルになった。私は幸運だったと思います」

 複数メディアによれば、ここ10年、皮膚がんによって闘病生活を送っていたというシュレーさん。そんな偉人の死を受け、ブラジルの全国紙『Lance』は、「ありがとう、アウジール」と銘打った記事を掲載。国の象徴とも言うべきユニホームを作り出した男に感謝の意を表した。

「彼は5度の世界タイトルを獲得したブラジル代表のイメージをブランディングする黄色いユニホームの生みの親で、偉大なジャーナリストにして、グラフィック・アーティストであり、そして素晴らしい作家でもあった。

 そのデザインには当初、当人も含めて、『これでいいのか?』という疑いの目が向けられていた。しかし、このユニホームは間違いなく、セレソンに幸運をもたらした。それは初陣となった54年3月14日に行なわれたマラカナンでのチリ戦から、今に至るまでのあまりに多くの歴史が物語っている」

 ちなみにブラジル代表は、偉大なユニホームを生み出したシュレーさんが亡くなった2日後、奇しくもデザインを変えるきっかけとなったウルグアイ代表と国際親善試合で対戦、ネイマールのPKを守り切って1-0と勝利している。
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