【今日の誕生日・特別編】6月6日/日本サッカー発展の礎となった全国リーグの幕開け――JSL

2016年06月06日 サッカーダイジェストWeb編集部

東洋工業の4連覇に始まり、読売の連覇で幕を閉じた27年間。

写真は日本代表時の釜本(左)と東洋工業の小城得達。小城は2年目のリーグで得点王に輝いた優れたオールラウンダーで、釜本ともに初期のJSLを彩った名手のひとりである。 (C) Getty Images

 1993年にJリーグがスタートしてから、早くも23年の年月が過ぎた。今では、当然のように存在するサッカーのプロリーグだが、92年以前の全国リーグは「日本サッカーリーグ」、通称「JSL」と呼ばれるアマチュアの実業団リーグだった。
 
 そのJSLの歴史がスタートしたのが、東京オリンピックの翌年、65年の6月6日。今から51年前のことである。
 
 日本サッカー界の恩人であるデットマール・クラマーの進言に従い、日本サッカー強化の一策として生まれた、日本ではプロ野球に続いての全国リーグ。記念すべきファーストシーズンに参加したのは、以下の8チームだった。
 
 東洋工業、八幡製鉄、古河電工、日立本社、三菱重工、豊田織機、ヤンマー、名古屋相互銀行
 
 日立対名古屋相互銀行の一戦で幕を開けた日本サッカー初の全国リーグは、前期後期の総当たり2回戦制で行なわれたが、当時は会場が整備されていないこともあり、野球場や高校、大学のグラウンドでも試合は行なわれた。
 
 記念すべき初代王者は、当時、"サッカーどころ"広島県出身の優秀な選手が揃っていた東洋工業(現マツダ)。サンフレッチェ広島の前身でもあるこのチームは抜群の強さを誇り、ここから4連覇を飾ることとなる。
 
 68年、日本代表がメキシコシティ五輪で銅メダルを獲得したことで、国内にサッカーブームが起こり、JSLの観客も大幅に増加。動員数419500人という数字は、参加チームが12に増える85年までの最高の数値であり、1試合平均観客数はJSLで歴代最高を誇った。
 
 このリーグで圧倒的な存在感を誇ったのが、日本サッカー界最高のストライカーと呼ばれる釜本邦茂。68年から6度もリーグ得点王に輝き、彼が所属するヤンマーは、70、80年代に計4度の優勝を果たした。
 
 この時代は、釜本のヤンマー、そして彼の日本代表でのベストパートナーである杉山隆一が所属する三菱重工が激しくしのぎを削り、リーグを大いに盛り上げた。
 
 リーグ創設以来、日立、古河、三菱は大きな影響力を持ち、それはピッチ上だけでなく、リーグ運営、そして代表チームにも及ぶほどだった(今もその派閥は残っているが)。日立は1回、古河は2回、そして三菱は4度のリーグ優勝を飾っている。
 
 70年代後半になると、読売クラブ、日産自動車などが台頭し、後にこの2チームの対決は「黄金カード」と呼ばれ、リーグだけでなく、元旦の天皇杯決勝でも好勝負を展開した(93年のJリーグのオープニングゲームも両者の後身チームの対峙)。
 
 86年、長年ドイツで活躍した奥寺康彦が古巣の古河に復帰したことで、プロについての制度が整えられ、初年度は奥寺と木村和司(日産)「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」に認定された。こうした社業に従事しない実質的な"プロ"は年々、増加していくこととなる。
 
 そしてこの頃から、真のプロリーグの創設を求める声が大きくなる。それは、まずJSLのアマチュアリズムが形骸化していたことがある。また、メキシコシティ五輪以降、日本代表が一度も国際大会の予選を突破できず、また人気面で他競技に劣っていたことも理由だった。
 
 プロ化に反対する声が少なくなかったが、後にJリーグチェアマンに就任する川渕三郎を中心に準備が進められ、91年に日本プロサッカーリーグ構想が発表されると、そこから日本サッカーは大きな変化を迎えることとなった。
 
 86年より秋春制を採用していたJSLは、92年3月、読売クラブの2連覇で27年の歴史に幕を閉じた。Jリーグ開幕を前年に控え、サッカー人気が急上昇していたこのシーズン、観客動員数は歴代最多の885400人を記録した。
 
 そして、1部リーグでは読売(→ヴェルディ)、日産(マリノス)、マツダ(→サンフレッチェ)、松下電器(→ガンバ)、古河(→ジェフ)、全日空(→フリューゲルス)、三菱自動車(→レッズ)、トヨタ自動車(→グランパス)、2部リーグからは住友金属(→アントラーズ)が、Jリーグに臨むこととなった。
 
 92年のナビスコカップを含めれば、プロ化から四半世紀近くが経ち、Jリーグ自体もすでに多くの歴史を創ってきた。そんなプロフェッショナルとしての日本サッカーの礎が、JSLというアマチュアリーグであるのは間違いない。
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