【今日の誕生日】5月22日/日本でのクラブ世界一決定戦のファーストスコアラー――ビクトリーノ(元ウルグアイ代表)

2016年05月22日 サッカーダイジェストWeb編集部

80年から81年にかけていくつもの栄誉を手にした点取り屋。

81年2月、歴史の幕を開けるメモリアルゴールを決めた直後。ウルグアイ代表では39試合で27得点という高い得点率を記録したビクトリーノは、4年前にスタッフとしてナシオナルに復帰している。 (C) SOCCER DIGEST

◇ワルデマール・ビクトリーノ:1952年5月22日生まれ ウルグアイ・モンテビデオ出身
 
 5月28日、イタリア・ミラノのサン・シーロでチャンピオンズ・リーグ決勝が行なわれる。欧州王座の行方は、2シーズンぶり2度目の「マドリード・ダービー」で決められることとなった。
 
 どちらが勝つか非常に興味深いが、日本のファンの場合、勝った方が年末、クラブワールドカップのために来日するということもあり、より贔屓チームへの応援に熱が入るかもしれない。
 
 このような日本のサッカーファンの楽しみが始まったのは、1981年からである。欧州王者と南米王者が東京で世界一クラブの座を争うトヨタカップの創設により、我々は毎年、国立競技場や横浜国際競技場(日産スタジアム)で、直に世界のプレーを堪能できた。
 
 2005年のクラブワールドカップ創設により、開催国は持ち回りとなり、日本のファンにとっては寂しい年末を余儀なくされる年もあるが、今年の12月はまた、各大陸の王者による意地とプライドを懸けた熱い戦いに酔いしれることとなる。
 
 さて、日本と世界一クラブ決定戦が初めて邂逅を果たした81年2月11日。国立の冬枯れのピッチに立ったのは、イングランドのノッティンガム・フォレストと、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオだった。
 
 今シーズンのレスターのようなミラクルストーリーの末に、欧州2連覇を果たしたノッティンガムだったが、残念ながら南米王者には0-1で敗れた。そして、その1点を決めたナシオナルの選手が、ワルデマール・ビクトリーノである。
 
 1969年から89年までプレーしたウルグアイ人ストライカーであり、国内ではナシオナルの他、セロ、プログレソ、リーベルでプレー。南米では、他にコロンビア、アルゼンチン、エクアドル、ベネズエラ、ペルーのクラブに在籍し、渡り歩いたチーム数は13を数える。
 
 82-83シーズンにはワールドカップ優勝直後のイタリアに渡り、セリエAのカリアリで1シーズンを過ごしている。
 
 79年にナシオナルで、87年にエクアドルのポルトビエホというクラブでリーグ得点王に輝いたビクトリーノだが、最も誇れる栄誉は、80~81年に立て続けの彼の元にもたらされた。
 
 7月にインテルナシオナル(ブラジル)とのリベルタドーレス・カップ決勝(2戦合計で1-0)で決勝ゴール、そして前述の通り、81年2月に行なわれた第1回トヨタカップでも唯一のゴールを決めた。
 
 右からのグラウンダーのクロスを相手DFより一瞬速く前に出て受け、バランスを崩しながらも右足を振り抜いて、名手ピーター・シルトンの守るゴールを破った場面は、トヨタカップのファーストゴールとして、たびたび紹介されている。
 
 同カップの初代MVPにも輝いたビクトリーノ。実はその1か月半前には、ウルグアイ代表として、西ドイツ(当時)を除く歴代ワールドカップ優勝国5か国にオランダ(74、78年大会準優勝)を加えて行なわれた「コパ・デ・オロ」でも大活躍を見せていた。
 
 グループリーグではオランダ戦、イタリア戦で1点ずつを挙げて勝利に貢献し、決勝のブラジル戦でもFKからのヘッド弾で決勝ゴールをゲット。彼の活躍により、初代世界王者のウルグアイは開催国としての責務を果たすとともに、国民に大きな喜びと誇りをもたらした。
 
 リベルタドーレス・カップ、コパ・デ・オロのいずれでも得点王に輝いたビクトリーノの名は世界中に知れ渡り、欧州のクラブが興味を示したのは言うまでもない。
 
 35年前にこのウルグアイ人によって最初の一歩が刻まれてから、トヨタカップでは54のゴールが生まれ、クラブワールドカップとなってから、日本で行なわれた大会での決勝戦(もちろんいずれも欧州王者対南米王者だ)では17つのゴールが横浜の大観衆を沸かせた。
 
 なお、記憶に新しい昨年末の同大会。バルセロナがリーベルを完膚なきまで叩きのめした決勝(3-0)で、2点目に続き、ダメ押しの3点目(現時点で最後のゴール)を決めたのは、ビクトリーノと同じウルグアイ人ストライカー、ルイス・スアレスだった。
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