「私は批判に対処するエキスパート」スペインを欧州王者に導いたデ・ラ・フエンテ監督の知られざる過去と素顔。就任当初は場違いな印象も...【コラム】

2024年07月26日 エル・パイス紙

メディアにやり返すことはしなかった

スペインの優勝に導いたデ・ラ・フエンテ監督。(C)Getty Images

 ルイス・デ・ラ・フエンテの「13」という数字への愛着は、スペインを4度目のEURO制覇に導いたプロセスと同じく苦しみから生まれた。サッカーというきらびやかな世界とはかけ離れたところで育んできた個性を引っ提げ、批判者を黙らせ、懐疑派を納得させた。

 1981年3月8日、舞台はバレンシアのルイス・カサノバ(現メスタージャ)。デ・ラ・フエンテはアスレティック・ビルバオの左ウイング、アルゴテが負傷したとき、アウェーチームのベンチに座っていた。後にスペインのU-21代表とフル代表を率いたイニャキ・サエス(デ・ラ・フエンテと同じだ)は、本職が左SBのデ・ラ・フエンテにチャンスを与えることを決めた。

 背番号13が登場したのは、後半13分のことだった。これがデ・ラ・フエンテにとってラ・リーガ1部デビュー戦だった。不慣れなポジションで、13並びと不吉な予感しかなかった。しかし彼は違った。最終的に1部で13シーズンプレーし、アスレティックでラ・リーガを2度、コパ・デル・レイとスーペルコパをそれぞれ1度ずつ獲得した。

 それからもプライベートも含めて13にまつわるポジティブな出来事が続き、13は縁起のいい数字になった。デ・ラ・フエンテがこのように他の人間なら疑わしい解釈をするようなことであっても、自分にとってはどんな意味があるのかを見極める能力に長けている。ベルリンオリンピックスタジアムで栄光の瞬間を迎えることができた原動力の1つだ。
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 タイトルを手にした後、デ・ラ・フエンテは、メディアにやり返すことはしなかった。

「今の私なら簡単にできることだ。でもそれは自分の弱さを見せるだけで、私はするつもりはない。過去のコメントをチェックしたい者がいれば、アーカイブを調べればいい」

 セビージャ時代に闘牛の愛好家となり、熱烈なカトリック教徒にしてフリオ・イグレシアス(スペインの往年の人気歌手)のファンでもある。シュツットガルトでドイツを延長戦の末に2-1で破り準決勝進出を決めた後、真夜中過ぎにホテルに到着すると、自分の部屋で休もうとした。しかし、代表団の一団がバーに集まっていることを知らされた。彼は階下に降り、カラオケを歌った。もちろんフリオ・イグレシアスの歌だ。

 報道陣の前では、時折堅苦しい印象を与えるが、素顔のデ・ラ・フエンテは人懐っこく、距離感が縮まると大笑いすることもある。彼はまた、人前で話すスキルにおいても進歩を遂げた。EUROでも記者会見の数をこなすにつれ、心理学者のハビエル・ロペス・バジェホの監視のもと、落ち着きを取り戻していった。「デ・ラ・フエンテが最善の決断を下し、後悔する頻度ができるだけ少なくなるように、感情をコントロールさせることが私の仕事だ」とバジェホは自らの役割を説明する。
 

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