忌まわしいナチスの収容所ですらボールは蹴られていた【サイモン・クーパーが綴る戦時下のフットボール|後編】

2023年12月09日 サイモン・クーパー

ドイツでは終戦間際までリーグ戦を開催

避難先でサッカーに興じるガザの子供たち。(C)Getty Images

 過激派組織による卑劣なテロ行為をきっかけに、何度となく繰り返されてきたイスラエルとパレスチナの武力衝突がふたたび激化している。

 もちろん、フットボールは止まったままだ。かの地にボールが転がる日は戻ってくるのだろうか。欧州を代表する著述家のサイモン・クーパーが、複雑で難解なテーマに切り込む。

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 ガザの若手有望株だったマフムド・サルサクという選手がいる。

 才能に恵まれていたサルサクはある日、ウエストバンクのプロチームに加入するために当地へ向かい、そこでイスラエル当局に拘束された。本人の否定もむなしく、イスラム過激組織との関わりを疑われたのだ。2年半の監獄生活を余儀なくされた彼は、そのときに敢行したハンガーストライキで生死の境をさまよった。

 12年に開放されたのは、当時のFIFA会長ゼップ・ブラッターとエリック・カントナ、リリアン・テュラムらの働きかけがあったからだった。しかし失った時間はあまりにも長く、輝いてしかるべき彼のキャリアは、もはや取り返しがつかなくなっていた。他のパレスチナのトップ選手たちはサルサクよりも不幸だ。09年のイスラエルによるガザ攻撃では3選手が死亡している。

 イスラエルの検問所による移動の制限により、パレスチナが代表選手の招集に苦労している状況は変わっていない。ここ数年はほぼウエストバンクの選手だけの構成となっていて、不足ポジションはイスラエル系アラブ人――彼らはアラビア語すら話せない――で補填している。

 そうしたハンデを抱えながら、パレスチナ代表は目を見張る功績を残している。

 僕は自著『なぜ日本は負けるのか』の執筆時、経済学者のステファン・シマンスキとともにある調査を行なった。その結果は僕の予想を大きく上回るものだった。

 パレスチナ代表が00~14年の期間に1試合平均1.5ゴールを記録していたのだ。パレスチナの人口、平均収入、国際舞台での経験値などを考慮すると驚異的な数字であり、世界のどんな代表国も成し遂げていない偉業のようにも思える。
 
 パレスチナ代表は15年と19年のアジアカップ出場歴があり、来年1月のカタール大会出場も決めている。しかし、実際に出場することはないだろう。代表選手の何人かはおそらく今回の戦争で命を落とした。僕らはパレスチナの人々のために、彼の地のフットボールの明るい未来を願う。しかしイスラエルとパレスチナの問題が解決する見込みはほとんどなさそうだ。

 あの地で起きている悲劇を見て、イスラエル人とパレスチナ人はいま、スポーツなどに興じている場合ではないと想像する人もいるだろう。しかし実際には戦争のときにこそ、人はフットボールの喜びを噛みしめる。それは目の前の現実から少しだけ目をそらすことでもある。

 第二次世界大戦下のフットボールについての自著を執筆しているとき、僕は戦時中も人々がプレーを続けていたことを知った。あの忌まわしいナチスの収容所ですらボールは蹴られていたのである。

 そのドイツでは多くの選手たちが命を落とすなかで、終戦間際の1944年までリーグ戦が開催されていた。ナチス下での最後の試合は45年4月22日に行なわれた。バイエルンが3-2で1860に勝利したミュンヘン・ダービーだ。そのとき、連合国軍はすでにミュンヘンの街の近くにまで進んでいた。

 彼らはいったい何を考えながらこのスポーツに興じていたのだろう。

 それから多くの時間が流れたいまも、世界はそれほど変わっていないという現実に気付かされる。ロシア軍の侵攻を受けているにもかかわらず、ウクライナではリーグ戦が行なわれているのだ。

 イスラエル人とパレスチナ人もきっと、もう一度ボールを蹴るその瞬間を待ちわびている。

文●サイモン・クーパー
翻訳●豊福 晋

※『ワールドサッカーダイジェスト』2023年11月16日号の記事を加筆・修正

【前編】命を奪われたひとりのフットボーラー

【中編】W杯に熱狂することは死にも関わる問題
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