横綱の品格に相応しくない力士が増えた? ただし彼らの努力と精進が否定されるのは…
日本の世の中に貢献できる人の言葉は重い。そんな世の中に影響を与える人が横綱の品位について厳しく指摘していた。
「私は彼が嫌い」だと。彼とは、名前は伏せるが外国人力士である。誰を想像するか? きっと歴代も含めてモンゴル人力士のことであるのは察しがつくであろう。
横綱には横綱の言動、気品がなければいけないと言うことである。ガッツポーズをしたり、大きな声でインタビューに答える。答え方ひとつ取っても、横綱として日本の国技に携わる者としての相応しくない態度に、少し強めの語気で訴えていた……。
相撲は長い歴史を持ち、その所作の中には様々な意味合いが含まれている。もちろん、そうした文化も時代とともに変わってきているのだろうが、それでもこの世界での基準が単に“勝負に勝つ”だけではいけないだろう。
どう勝つかが大事であり。そして、勝った後も負けた後も、いかに振る舞うのかというところまでを必要とされているということ。それは僕も知っていることである。
相撲界も外国人力士が増え、ここ数年の勢力図も人気もモンゴル力士が中心のように見える。そんな時代にあっても、相撲の伝統を守るための言葉、考え方は必要なのだと思うが、現実に“勝負事に強い”のは彼らのようである。
ただし、アスリートだった僕には、競技こそ違うが一所懸命やっている彼らが少し可哀想だなという気持ちもある。横綱まで登り詰めた努力と精進までもが否定されていたとしたら、それは少し問題だなと感じた。
イメージが良く、受け応えの上手いメディア受けする“真面目タイプ”と、生き方に魅力を感じさせる“やんちゃタイプ”がいて、時代がどちらかを選ぶのかというスポーツとは、相撲は毛色が違うだろうし、国技とされているのだから、人気スポーツという位置ではなく伝統スポーツなのであろう。
そうなると、彼らだけを責めるのは少し違うような気もする。横綱は、横綱審議委員会という組織によって選ばれることで初めて横綱になれる。だから、横綱を否定する前に、選んだ人たちにも問題があると考えるべきだ。
3場所で何勝したら横綱になれるという基準と、横綱としての気品が認められて横綱に任命されたのである。
それが横綱になった瞬間、否定されたとなれば、本人だけの問題では済まない。選んだ人たちにも責任があるのでは、と僕は思うのだ。
「私は彼が嫌い」だと。彼とは、名前は伏せるが外国人力士である。誰を想像するか? きっと歴代も含めてモンゴル人力士のことであるのは察しがつくであろう。
横綱には横綱の言動、気品がなければいけないと言うことである。ガッツポーズをしたり、大きな声でインタビューに答える。答え方ひとつ取っても、横綱として日本の国技に携わる者としての相応しくない態度に、少し強めの語気で訴えていた……。
相撲は長い歴史を持ち、その所作の中には様々な意味合いが含まれている。もちろん、そうした文化も時代とともに変わってきているのだろうが、それでもこの世界での基準が単に“勝負に勝つ”だけではいけないだろう。
どう勝つかが大事であり。そして、勝った後も負けた後も、いかに振る舞うのかというところまでを必要とされているということ。それは僕も知っていることである。
相撲界も外国人力士が増え、ここ数年の勢力図も人気もモンゴル力士が中心のように見える。そんな時代にあっても、相撲の伝統を守るための言葉、考え方は必要なのだと思うが、現実に“勝負事に強い”のは彼らのようである。
ただし、アスリートだった僕には、競技こそ違うが一所懸命やっている彼らが少し可哀想だなという気持ちもある。横綱まで登り詰めた努力と精進までもが否定されていたとしたら、それは少し問題だなと感じた。
イメージが良く、受け応えの上手いメディア受けする“真面目タイプ”と、生き方に魅力を感じさせる“やんちゃタイプ”がいて、時代がどちらかを選ぶのかというスポーツとは、相撲は毛色が違うだろうし、国技とされているのだから、人気スポーツという位置ではなく伝統スポーツなのであろう。
そうなると、彼らだけを責めるのは少し違うような気もする。横綱は、横綱審議委員会という組織によって選ばれることで初めて横綱になれる。だから、横綱を否定する前に、選んだ人たちにも問題があると考えるべきだ。
3場所で何勝したら横綱になれるという基準と、横綱としての気品が認められて横綱に任命されたのである。
それが横綱になった瞬間、否定されたとなれば、本人だけの問題では済まない。選んだ人たちにも責任があるのでは、と僕は思うのだ。