身体の強さと激しい闘争心ゆえに感情をストレートに表現しすぎることも…
多くの日本代表を輩出してきた「上州のタイガー軍団」の系譜を語るうえで、欠かせないプレーヤーがいる。Jリーグや国際舞台などで活躍した松田直樹だ。
言わずと知れた日本で指折りのCBは、前橋育英高時代から将来を嘱望されてきた。93年には、日本代表の一員として中田英寿や財前宣之らと自国開催のU-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)に出場。高校卒業後は95年に横浜へ入団し、体躯の強さを生かした守りで1年目からポジションを掴んだ。
U-23代表でも活躍し、96年のアトランタ五輪ではマイアミの奇跡を起こしたブラジル戦に出場。A代表では02年の日韓ワールドカップでフィリップ・トルシエ監督の導入したフラットスリー(3バック)の一角を務め、日本代表初のベスト16入りに大きく貢献した。
その後も横浜の中心選手としてプレー。11年からは当時JFLの松本山雅に籍を移し、さらなる活躍が期待されていたが、同年8月2日のトレーニング中に急性心筋梗塞で倒れ、同4日に34歳の若さで急逝した。
無類の負けず嫌いで誰よりもサッカーが好き。その想いが強すぎるが故に感情をストレートにぶつけることもあった。前橋育英時代に指導した山田耕介監督は、そんな松田をどんな風に見ていたのだろうか。
まず、指揮官は身体の強さに天性のものを感じたという。「本当に身体は強いし、400mとか800m走とかの陸上競技をやらせても、結構上のほうまで行ったかもしれない。100mは厳しいけど、400mと800mはチームで一番。本当に心肺機能は強かったし、負けん気も強かった」と、山田監督が目を丸くするほどのフィジカル能力を当時から兼ね備えていた。
加えて、闘争心も当時から群を抜いていたと山田監督は話す。「本当に彼は抜群でしたよ。本当のファイターでした。自分の意見をはっきりと言う生徒で、僕もその頃は『それは認めん、寄るな』と話していましたから(笑)」と、物事をはっきりと言う生徒だったとも教えてくれた。そんな松田のスタイルを表わす出来事が、とある大会の試合で起こったという。
「自分は松田を試合に使わなかったんだけど、そうしたら、俺の前でずっとウォーミングアップをやっていたんだよね(笑)。俺は『お前邪魔だ!』とか言って、最終的に彼を最後まで使わなかった。ずっとダメだ使わないと言ってね。起用しなかった理由は、確か松田が何かやらかしたんだよね(笑)」
ピッチ外の問題で出場を許されなかった松田は、試合に出場したいがあまりに指揮官へ猛烈なデモンストレーションを行なった。その熱量は凄まじい。事あるごとに松田は自分の想いをストレートにぶつけ、「今の子供たちは自分を主張できない。でも、直樹にはそういう資質があった」と山田監督は物怖じしない松田のメンタリティーを買っていた。
一方で指揮官は謙虚さも持ち合わせていたと語る。それを象徴する場面が代表合宿から帰ってきた時のことだ。
「1年生の頃は『山田先生、代表の合宿に行ったら僕が一番下手くそでした』と言ってきてね。だから、『そうだろ』というと、『僕はDFとして頑張ります』って言ったよね」
負けん気は強いが素直に相手の凄さを受け入れる。そのような柔軟性が松田直樹という男の成長を支えていたのである。たからこそ、サッカー小僧は世界で通じる選手にまで成り上がったのだろう。
【PHOTO】選手権を彩った来季のスター候補生・下級生ベストイレブン!
言わずと知れた日本で指折りのCBは、前橋育英高時代から将来を嘱望されてきた。93年には、日本代表の一員として中田英寿や財前宣之らと自国開催のU-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)に出場。高校卒業後は95年に横浜へ入団し、体躯の強さを生かした守りで1年目からポジションを掴んだ。
U-23代表でも活躍し、96年のアトランタ五輪ではマイアミの奇跡を起こしたブラジル戦に出場。A代表では02年の日韓ワールドカップでフィリップ・トルシエ監督の導入したフラットスリー(3バック)の一角を務め、日本代表初のベスト16入りに大きく貢献した。
その後も横浜の中心選手としてプレー。11年からは当時JFLの松本山雅に籍を移し、さらなる活躍が期待されていたが、同年8月2日のトレーニング中に急性心筋梗塞で倒れ、同4日に34歳の若さで急逝した。
無類の負けず嫌いで誰よりもサッカーが好き。その想いが強すぎるが故に感情をストレートにぶつけることもあった。前橋育英時代に指導した山田耕介監督は、そんな松田をどんな風に見ていたのだろうか。
まず、指揮官は身体の強さに天性のものを感じたという。「本当に身体は強いし、400mとか800m走とかの陸上競技をやらせても、結構上のほうまで行ったかもしれない。100mは厳しいけど、400mと800mはチームで一番。本当に心肺機能は強かったし、負けん気も強かった」と、山田監督が目を丸くするほどのフィジカル能力を当時から兼ね備えていた。
加えて、闘争心も当時から群を抜いていたと山田監督は話す。「本当に彼は抜群でしたよ。本当のファイターでした。自分の意見をはっきりと言う生徒で、僕もその頃は『それは認めん、寄るな』と話していましたから(笑)」と、物事をはっきりと言う生徒だったとも教えてくれた。そんな松田のスタイルを表わす出来事が、とある大会の試合で起こったという。
「自分は松田を試合に使わなかったんだけど、そうしたら、俺の前でずっとウォーミングアップをやっていたんだよね(笑)。俺は『お前邪魔だ!』とか言って、最終的に彼を最後まで使わなかった。ずっとダメだ使わないと言ってね。起用しなかった理由は、確か松田が何かやらかしたんだよね(笑)」
ピッチ外の問題で出場を許されなかった松田は、試合に出場したいがあまりに指揮官へ猛烈なデモンストレーションを行なった。その熱量は凄まじい。事あるごとに松田は自分の想いをストレートにぶつけ、「今の子供たちは自分を主張できない。でも、直樹にはそういう資質があった」と山田監督は物怖じしない松田のメンタリティーを買っていた。
一方で指揮官は謙虚さも持ち合わせていたと語る。それを象徴する場面が代表合宿から帰ってきた時のことだ。
「1年生の頃は『山田先生、代表の合宿に行ったら僕が一番下手くそでした』と言ってきてね。だから、『そうだろ』というと、『僕はDFとして頑張ります』って言ったよね」
負けん気は強いが素直に相手の凄さを受け入れる。そのような柔軟性が松田直樹という男の成長を支えていたのである。たからこそ、サッカー小僧は世界で通じる選手にまで成り上がったのだろう。
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