「爆弾に怯えていた…」クロアチア代表DFが壮絶な紛争体験をあえて告白した理由は?

2017年02月10日 サッカーダイジェストWeb編集部

生きるための手段だったサッカー。

リバプールの公式チャンネルで自身の壮絶な生い立ちを語ったロブレン。 (C) Getty Images

 クロアチア代表DFのデヤン・ロブレンが、所属するリバプールの公式チャンネル『リバプールTV』で壮絶な幼少期について語った。
 
 1989年7月5日に旧ユーゴスラビアのゼニツァ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)で生まれたロブレンは、3~6歳の時にボスニア紛争(1992~1995年)を経験。10万人以上の死者を出したと言われるその壮絶な戦火を、次のように明かしている。
 
「真実を誰も知らないんだ。それは何事もなく起きた。そして、人々を変えてしまった。当時はサイレンがずっと鳴り響いていたことを覚えているよ。僕は爆弾が降ってくるんじゃないかと思って、怯えていた」
 
「ある時、母が僕を地下に連れてってくれた。どれくらい座っていたかは思い出せない。とにかくサイレンが鳴りやむのを待ったんだ」
 
 その後、戦火から離れるため、両親と叔父家族らと共にドイツへと逃げたというロブレンは、「叔父の兄弟はナイフで刺されて死んだ。そして、僕の友人は泣いていたから理由を聞いたら、『お父さんが戦死した』って……。それが僕の父だった可能性だってあったんだ」と悲痛な表情で語った。

 さらに「母は毎日のように泣いていた。僕は『母さん、もう終わったんだ。泣かないで!』と言っていたけど、彼女にとってどれだけハードなことだったのかを全く理解していなかった……」とも明かした。
 
 1995年に紛争が終結した後にドイツ当局からバルカン半島へと戻されたロブレンと家族たちは、クロアチアに移住。しかし、クロアチア語を喋れないことで多くの苦労をしたという。

 ロブレンは、「母はパートで生計を立て、父は画家としてやりくりしていた。けど、生活は楽じゃなかった。日々の食事もギリギリで、1週間の電気代も払えなかった」と、困窮した当時の生活を語った。

 とくに学校生活で、言語の壁からイジメを受けたというロブレンは、「読み書きができないし、全てのアクセントも違うから、みんなが僕に『どうしてお前は喋り方が変なんだ』と言ってきた。笑われるのが嫌で、よく喧嘩をしていたよ」と、簡単ではない日々を振り返った。
 
 しかし、そんなロブレンの救いとなったのが、サッカーだったという。
 
「彼らが僕のことで唯一、笑わなかったのがサッカーだった。僕はこれが彼らからリスペクトを受けるための術だと思った。僕はサッカーに夢中になり、そのために生きていた」
 
 その生きるために磨いたスキルを伸ばし続けたロブレンは、クロアチアの名門ディナモ・ザグレブにスカウトされ、2004年にトップチーム・デビュー。2010年1月にリヨンへと移籍し、2013年の夏にサウサンプトンへ。2014年夏からリバプールに所属している。
 
 さらに2009年8月12日のベラルーシ戦でA代表デビューを飾り、2014年のブラジル・ワールドカップにも出場するなど、クロアチアを代表するフットボーラーとなった。
 
 現在27歳となったロブレンは、「母に『戦争の話をする』と相談したら、『そんな話はしないで』と泣きつかれたよ。それくらいデリケートな問題なんだ」。それでもクラブの公式チャンネルであえて口を開いた理由は、昨今の中東難民問題に理解を求めるためだった。
 
「僕は次の世代が楽な生活を送ってくれることを望んでいる。人々(難民)はみんな自分の身を守りたいけど、家がないんだ。でも、それは彼らのせいじゃない。みんな、子どもや家族の命を守りたくて戦っている。彼らは子どものために安全な場所を求めているだけだ。僕はそういう中を生きてきたから分かる」
 
「彼らにチャンスを与えてあげて欲しい。きっとあなたたちなら、誰が善人で、誰がそうではないかの見分けはつくはずだ」
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