【連載】蹴球百景vol.10 「コスモスに君と」

2017年01月31日 宇都宮徹壱

70年代後半、世界のサッカーシーンはアメリカに熱い視線が集まっていた。

ニューヨーク・コスモスには単にスター選手だけではなく、世界各国から多くの選手が集っていた。写真:宇都宮徹壱(New Jersey, U.S.A. 2009)

 貴方がスタジアムで初めて見た「海外のチーム」はどこだろうか? 私の場合、ニューヨーク・コスモスだ。1977年9月14日、旧国立競技場で行なわれた『ペレさよならゲーム・イン・ジャパン』。今から40年前に開催された全日本との一戦は、3−1でコスモスが勝利している。当時の全日本は、釜本邦茂、奥寺康彦、永井良和、金田喜稔、加藤久、西野朗がスタメン。対するコスモスは、現役引退を表明していたペレをはじめ、フランツ・ベッケンバウアー、カルロス・アルベルトの名前がリストから確認できる。
 
 今の感覚からは信じ難いだろうが、70年代後半の世界のサッカーシーンは、アメリカに熱い視線が集まっていた。1968年から84年まで開催されたNASL(北米サッカーリーグ)は、21世紀の現代では「失敗したリーグ」、あるいは「MLSの反面教師」として認識されている。
 
 それでも当時の日本の専門誌を見返すと、ドイツやイングランドの国内リーグ情報と並んで、NASLに関する情報にかなりのページを割いていたことが分かる。そして、いつも話題の中心にあったのは「王様」や「皇帝」を擁していたコスモスだった。
 
 当時11歳だった私にとってのコスモスは、のちの「銀河系軍団」のような存在であった。しかし長じて、このクラブのことを調べる機会があった時、単にスーパースターを揃えただけではないことを知る。ブラディスラブ・ボギチェビッチはユーゴスラビア(セルビア)、モルデハイ・シュピーグラーはイスラエル、アンドラニク・エスカンダリアンはイランの出身。他にもガーナ、南アフリカ、ルーマニア、トルコ、パラグアイ、トリニダード・トバゴなど、まさに世界中からタレントを受け入れていたのである。
 
 コスモスでプレーした「唯一のアジア人」といえば、イラン出身のエスカンダリアンだ(名前からも分かるように、実はアルメニア系)。90年で現役を終えた彼は、ニュージャージーでスポーツ用品店を開いており、アメリカで取材していた際には、私も訪れたことがある。日本から来たことを伝えると、すっかり白髪となったレジェンドは「東京のナショナルスタジアムでプレーしたことは、よく覚えているよ」と、懐かしそうに当時の写真を見せてくれた。
 
 もっとも、エスカンダリアンがコスモスの一員として国立でプレーしたのは、77年ではなく2年後の79年である。この年の1月、彼の祖国ではイスラム革命が勃発。前年のワールドカップに出場していた元イラン代表は、しばらく祖国に帰れない状態が続いた。直後にアメリカがイランと国交を断絶し、さらに84年には「テロ支援国家」に指定したからである。それでも当人は「そんなに辛い思いはしなかった。テヘランの親類にも会うことができたし」とにこやかに語っていた。今から8年前の09年。バラク・オバマが大統領に就任した時の話だ。
 
 このほどドナルド・トランプが発した大統領令により、アメリカへの入国禁止が指定されたイスラム圏7か国の中にはイランも含まれていた。このニュースに接した時、私がまず思いを巡らせたのが、清水の監督経験もあるアフシン・ゴトビであり、エスカンダリアンだった。どちらもアメリカ国籍は持っているが、今後の成り行きに気が気でないだろう。
 
 トランプの出身地であるニューヨーク。そこにはかつて、コスモスという素晴らしいプロサッカークラブがあった。そして、そのクラブ名の由来は「コスモポリタン」であった。
 
宇都宮徹壱/うつのみや・てついち 1966年、東京都生まれ。97年より国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。このほど『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)を上梓。自称、マスコット評論家。公式ウェブマガジン『宇都宮徹壱ウェブマガジン』。
 
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