エリートだと思われがちなんですけど、まったく違う
取材で訪れたのは、ギラヴァンツの練習場のひとつである本城陸上競技場。広域公園の一角にあり、本山の実家はすぐそばにある。
「生まれたのがこの近くの若松(区)。小学校の練習が終わったらここまで来て、奥にあるちょっとした芝生のグラウンドでボールを蹴るんです。宮原(裕司)とか山形(恭平)とかと、みんなでね。僕にとってはサッカーの原点、聖地みたいな場所なんですよ、ここは」
両親は鮮魚店を営む。お父さんはサッカー経験者ではなく、「運動しているのは見たことがない。ただ昔なじみのひとに聞くと、若い頃は足が速かったという説はあります」と、4人兄弟の末っ子・雅志が証言する。サッカーは3つ上の兄、竜次さんの影響ではじめた。どこに行くにもくっついていき、大好きだったという。
「幼稚園の時、おじいちゃんによく連れてってもらって、兄ちゃんのサッカーを観にいってた。一緒にまぜてもらったりしてなんとなくボールを蹴るようになって、家の裏の公園でも毎日のように付き合ってくれてました。憧れの存在でしたね。ずっと前を歩いてくれた感じです」
本格的にサッカーに打ち込んだのは、小1から。竜次さんと同じ、二島小学校の少年団に入った。
「親が言うには、とにかく止める、蹴るの基本を徹底的に教え込まれてたみたいです。ただ楽しかっただけで、あんまし詳しいことは覚えてないんですけど、5年になったくらいかな、指導者の方に『お前は自由にやっていい。パスはやんないでどんどんドリブルで好きなように仕掛けろ』って言われたのが印象に残ってます。いやでも、そんなドリブルで全部は行けないしなぁ、とか思いながらも、伸び伸びやらせてもらってましたね。良さを引き出してくれるというか、そんな感じでした」
北九州人の気質とはどんなものなのか。なにかしらプレースタイルに影響を及ぼしたのか。本山は「どうかなぁ、ケンカっぱやいのはあるし、負けず嫌いなのは間違いない。言葉もきついし、小学校も中学校もヤンチャなのが多くて、もうビーバップの世界でしたから。僕は絡んでなかったけど(笑)。個の強さってのはあるかもしれない」と、分析してくれた。
中学はそのまま地元の二島中学校に進学。「戦術うんぬんじゃなくて、目標をしっかり持たせてくれた」と、当時の指導に感謝する。最終学年の一年は、本山(中3)、宮原(中2)、山形(中1)とのちに東福岡高校の10番を継承した3人が揃い踏み。県内でほぼ無敵を誇ったが、それでも九州大会では勝てなかった。全国中学校大会には出場できなかったのだ。
「たぶんヒガシ(東福岡)とかアンダー代表での印象が強いから、僕はずっとエリートだと思われがちなんですけど、まったく違う。小中で一度も全国には行けなかったし、選抜にしたって中2くらいでやっと選ばれたくらいですから。誰にも負けないぞとは思ってたけど、ナショナルトレセンとかで全国の同年代の選手たちと初めて戦った時は、それこそショックでしたよ。同じ九州選抜で同部屋だったヤット(遠藤保仁)とも、『やっぱスゲーのいっぱいいるよなぁ』って感心してましたから」
「生まれたのがこの近くの若松(区)。小学校の練習が終わったらここまで来て、奥にあるちょっとした芝生のグラウンドでボールを蹴るんです。宮原(裕司)とか山形(恭平)とかと、みんなでね。僕にとってはサッカーの原点、聖地みたいな場所なんですよ、ここは」
両親は鮮魚店を営む。お父さんはサッカー経験者ではなく、「運動しているのは見たことがない。ただ昔なじみのひとに聞くと、若い頃は足が速かったという説はあります」と、4人兄弟の末っ子・雅志が証言する。サッカーは3つ上の兄、竜次さんの影響ではじめた。どこに行くにもくっついていき、大好きだったという。
「幼稚園の時、おじいちゃんによく連れてってもらって、兄ちゃんのサッカーを観にいってた。一緒にまぜてもらったりしてなんとなくボールを蹴るようになって、家の裏の公園でも毎日のように付き合ってくれてました。憧れの存在でしたね。ずっと前を歩いてくれた感じです」
本格的にサッカーに打ち込んだのは、小1から。竜次さんと同じ、二島小学校の少年団に入った。
「親が言うには、とにかく止める、蹴るの基本を徹底的に教え込まれてたみたいです。ただ楽しかっただけで、あんまし詳しいことは覚えてないんですけど、5年になったくらいかな、指導者の方に『お前は自由にやっていい。パスはやんないでどんどんドリブルで好きなように仕掛けろ』って言われたのが印象に残ってます。いやでも、そんなドリブルで全部は行けないしなぁ、とか思いながらも、伸び伸びやらせてもらってましたね。良さを引き出してくれるというか、そんな感じでした」
北九州人の気質とはどんなものなのか。なにかしらプレースタイルに影響を及ぼしたのか。本山は「どうかなぁ、ケンカっぱやいのはあるし、負けず嫌いなのは間違いない。言葉もきついし、小学校も中学校もヤンチャなのが多くて、もうビーバップの世界でしたから。僕は絡んでなかったけど(笑)。個の強さってのはあるかもしれない」と、分析してくれた。
中学はそのまま地元の二島中学校に進学。「戦術うんぬんじゃなくて、目標をしっかり持たせてくれた」と、当時の指導に感謝する。最終学年の一年は、本山(中3)、宮原(中2)、山形(中1)とのちに東福岡高校の10番を継承した3人が揃い踏み。県内でほぼ無敵を誇ったが、それでも九州大会では勝てなかった。全国中学校大会には出場できなかったのだ。
「たぶんヒガシ(東福岡)とかアンダー代表での印象が強いから、僕はずっとエリートだと思われがちなんですけど、まったく違う。小中で一度も全国には行けなかったし、選抜にしたって中2くらいでやっと選ばれたくらいですから。誰にも負けないぞとは思ってたけど、ナショナルトレセンとかで全国の同年代の選手たちと初めて戦った時は、それこそショックでしたよ。同じ九州選抜で同部屋だったヤット(遠藤保仁)とも、『やっぱスゲーのいっぱいいるよなぁ』って感心してましたから」