もっと楽しようと思えば思うほど、ポジションが下がった。
1980年1月28日、鹿児島・桜島のシンボルである御岳(おんたけ)の麓で、生を受けた。それから高校を卒業するまでの18年間、ヤットの成長を見守り続けた郷土だ。はたして、桜島の風土と島民の特性とはどういうものなのか。
愛情たっぷりに説明してくれた。
「みんな本当にあったかい。いつでも、誰かを助ける。物心ついたときから徹底的に植えつけられているせいか、もう身体に沁みついてる感覚なんだよね。うちでご飯食べていきー、喉が渇いてたら飲み物もっていきー、みたいな。
苦しくなったときに誰かを助けるというのは、すごく自然に湧いてくるもので、プロになってからあらためて感じた。『自分はちょっとそういう想いが強いんかもな』と。誰かが削られたら俺が削り返す。誰かが疲れたら、そのぶん俺が走る。勝手にそうなるから。桜島特有なのかどうかは分からんけど、田舎暮らしの良さだろうね」
いつからサッカーボールを蹴りはじめたのかは、覚えてないという。それほど遠藤家にとってサッカーは日常の風景に溶け込んでいた。長男の拓哉と次男の彰弘がすでに虜になっていて、幼稚園児の保仁をしごきまくったという。
ただ、当時の島の少年団は小学3年まで入部が許されていなかった。そこで末っ子を不憫に思った父の武義は、自宅の庭を改修して、ちょっとしたサッカーコートを作った。ふたりの兄や近所のサッカー少年たちに交じり、コテンパンにされながらも、懸命に自分の居場所を探した日々。まさに原点だったと回顧する。
「あれは本当に良かった。ただでさえ普通の子どもらより巧い兄貴たちとやってたわけで、兄貴たちの友だちもみんな大きかったし、そのなかでどうやってボールに触れるかを必死に考えてたんだと思う。どうやったらボールを取れるか、どうやったら抜けるか。がむしゃらにボールを追っかけ回してたから体力もついただろうし。まあ、まったく敵わなかったけど、巧くなる要素があそこにはいっぱいあったんだと思う。
ブラジル代表の選手って、ストリートサッカーとかフットサル出身の選手が多いけど、同じような環境だったのかもしれない。みんな年上で、吹っ飛ばされないようにはどうしたらいいかをすごく考えてたもんね。俺にとっては最高にいい環境。朝の30分くらいだけだったけど、一日でいちばん楽しい時間だった」
10年前に桜島を訪れて、少年団の指導をされていた人物に話を訊いたとき、驚きのエピソードを教えてもらった。小学校低学年だと、我先にとボールに群がってダンゴ状態になりがちだ。だがそんななか、保仁はじっとその外側に位置取り、ボールがどこに出てくるかを見定めていたというのだ。本当なのか!?
「どうやろ、ぜんぜん覚えてない。でも、そんな感じだったんじゃないかな。考えてプレーするってのはもう身に付いてたし、そこ(ダンゴ)に入ってもしょうがないとは思ってただろうね」
小学校ではストライカーとして鳴らしたが、中学のサッカー部に入ってからは徐々にポジションが下がっていった。そしていつの間にか、ボランチが安住の地となっていたようだ。
「中学校くらいからほぼいまのスタイル。良くも悪くも、さぼり癖を覚えてしまった。あれ? ボランチって楽やんと。これはきつくないぞ、ぜんぜん。ほかの選手より体力もあったし、ボール来たら捌いとけばいいみたいな。点取り屋で入学したんだけど、もっと楽しようと思えば思うほど、ポジションが下がった。あの頃とスタイルはほとんど変わってない」
【PHOTO】厳選フォトで振り返る1999ワールドユース「銀色の進撃」
愛情たっぷりに説明してくれた。
「みんな本当にあったかい。いつでも、誰かを助ける。物心ついたときから徹底的に植えつけられているせいか、もう身体に沁みついてる感覚なんだよね。うちでご飯食べていきー、喉が渇いてたら飲み物もっていきー、みたいな。
苦しくなったときに誰かを助けるというのは、すごく自然に湧いてくるもので、プロになってからあらためて感じた。『自分はちょっとそういう想いが強いんかもな』と。誰かが削られたら俺が削り返す。誰かが疲れたら、そのぶん俺が走る。勝手にそうなるから。桜島特有なのかどうかは分からんけど、田舎暮らしの良さだろうね」
いつからサッカーボールを蹴りはじめたのかは、覚えてないという。それほど遠藤家にとってサッカーは日常の風景に溶け込んでいた。長男の拓哉と次男の彰弘がすでに虜になっていて、幼稚園児の保仁をしごきまくったという。
ただ、当時の島の少年団は小学3年まで入部が許されていなかった。そこで末っ子を不憫に思った父の武義は、自宅の庭を改修して、ちょっとしたサッカーコートを作った。ふたりの兄や近所のサッカー少年たちに交じり、コテンパンにされながらも、懸命に自分の居場所を探した日々。まさに原点だったと回顧する。
「あれは本当に良かった。ただでさえ普通の子どもらより巧い兄貴たちとやってたわけで、兄貴たちの友だちもみんな大きかったし、そのなかでどうやってボールに触れるかを必死に考えてたんだと思う。どうやったらボールを取れるか、どうやったら抜けるか。がむしゃらにボールを追っかけ回してたから体力もついただろうし。まあ、まったく敵わなかったけど、巧くなる要素があそこにはいっぱいあったんだと思う。
ブラジル代表の選手って、ストリートサッカーとかフットサル出身の選手が多いけど、同じような環境だったのかもしれない。みんな年上で、吹っ飛ばされないようにはどうしたらいいかをすごく考えてたもんね。俺にとっては最高にいい環境。朝の30分くらいだけだったけど、一日でいちばん楽しい時間だった」
10年前に桜島を訪れて、少年団の指導をされていた人物に話を訊いたとき、驚きのエピソードを教えてもらった。小学校低学年だと、我先にとボールに群がってダンゴ状態になりがちだ。だがそんななか、保仁はじっとその外側に位置取り、ボールがどこに出てくるかを見定めていたというのだ。本当なのか!?
「どうやろ、ぜんぜん覚えてない。でも、そんな感じだったんじゃないかな。考えてプレーするってのはもう身に付いてたし、そこ(ダンゴ)に入ってもしょうがないとは思ってただろうね」
小学校ではストライカーとして鳴らしたが、中学のサッカー部に入ってからは徐々にポジションが下がっていった。そしていつの間にか、ボランチが安住の地となっていたようだ。
「中学校くらいからほぼいまのスタイル。良くも悪くも、さぼり癖を覚えてしまった。あれ? ボランチって楽やんと。これはきつくないぞ、ぜんぜん。ほかの選手より体力もあったし、ボール来たら捌いとけばいいみたいな。点取り屋で入学したんだけど、もっと楽しようと思えば思うほど、ポジションが下がった。あの頃とスタイルはほとんど変わってない」
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