長友に追われる形でインテルを退団。
新戦力ダウベルトとのレギュラー争いを制し、左SBの定位置を手中にしかけていたインテルの長友佑都に、新たなライバルが出現した。イタリア代表の経験もあるダビデ・サントンだ。
国際Aマッチウィーク明けのアタランタ戦(セリエA第13節)、長友の疲労も考慮され、左SBとして今シーズン初スタメンを飾ると、そこから3試合連続の先発出場。12節までは2試合に途中出場(プレー時間は計7分間)しただけで、ほぼ戦力外に近かった男が、一気に定位置に争いに割って入ってきた。
このサントンと長友には、ちょっとした因縁がある。
インテルの下部組織で育ったサントンがトップデビューを果たしたのは、2009年の1月。18歳の少年を抜擢したのが、当時の監督であるジョゼ・モウリーニョ(現マンチェスター・ユナイテッド)だった。
186センチの恵まれた体躯を持つ左右兼用の大型SBは、瞬く間に左SBの定位置を奪取。4年連続のスクデット獲得に貢献した。
だが、さらなる飛躍が期待された翌シーズンは怪我に泣き、わずか12試合の出場に留まる。そして、恩師モウリーニョがチームを去った10-11シーズンも、満足な出場機会を得られないまま、半年が過ぎた。
迎えた11年の1月31日。冬のメルカートの期限最終日に、インテルは新たなSBを獲得する。欧州初挑戦ながら、チェゼーナで眩い輝きを放っていた長友だ。この左でも右でも機能する日本代表SBと入れ替わる形で、サントンはチェゼーナへレンタルされたのだった。
翌シーズンもインテルの構想外となり、ニューカッスルに完全移籍。プレミアリーグで3年半に渡って研鑽を積んだ。そして、約4年ぶりにインテルに復帰したのが、15年の1月だった。
イングランドで逞しさを身に付けて帰ってきたサントンは、フィジカル能力の高いDFを重用するロベルト・マンチーニ監督の信頼を掴み、すぐさま左SBのレギュラーの座を勝ち取る。今度は、サントンが長友を追い落としたのだった。
国際Aマッチウィーク明けのアタランタ戦(セリエA第13節)、長友の疲労も考慮され、左SBとして今シーズン初スタメンを飾ると、そこから3試合連続の先発出場。12節までは2試合に途中出場(プレー時間は計7分間)しただけで、ほぼ戦力外に近かった男が、一気に定位置に争いに割って入ってきた。
このサントンと長友には、ちょっとした因縁がある。
インテルの下部組織で育ったサントンがトップデビューを果たしたのは、2009年の1月。18歳の少年を抜擢したのが、当時の監督であるジョゼ・モウリーニョ(現マンチェスター・ユナイテッド)だった。
186センチの恵まれた体躯を持つ左右兼用の大型SBは、瞬く間に左SBの定位置を奪取。4年連続のスクデット獲得に貢献した。
だが、さらなる飛躍が期待された翌シーズンは怪我に泣き、わずか12試合の出場に留まる。そして、恩師モウリーニョがチームを去った10-11シーズンも、満足な出場機会を得られないまま、半年が過ぎた。
迎えた11年の1月31日。冬のメルカートの期限最終日に、インテルは新たなSBを獲得する。欧州初挑戦ながら、チェゼーナで眩い輝きを放っていた長友だ。この左でも右でも機能する日本代表SBと入れ替わる形で、サントンはチェゼーナへレンタルされたのだった。
翌シーズンもインテルの構想外となり、ニューカッスルに完全移籍。プレミアリーグで3年半に渡って研鑽を積んだ。そして、約4年ぶりにインテルに復帰したのが、15年の1月だった。
イングランドで逞しさを身に付けて帰ってきたサントンは、フィジカル能力の高いDFを重用するロベルト・マンチーニ監督の信頼を掴み、すぐさま左SBのレギュラーの座を勝ち取る。今度は、サントンが長友を追い落としたのだった。