アトランタ五輪の出場権を懸けた戦いの4年前にプロ入りを決断させる出来事が。
川口能活、40歳。彼のサッカー人生は、言い換えれば、日本代表の“世界挑戦”の歴史と重ね合わせることができる。絶対に負けられない戦いのなかで、彼はどんなことを考えていたのか。日本サッカー界のレジェンドが振り返る名勝負の知られざる舞台裏——―。
第1回:1996年アトランタ五輪アジア最終予選 準決勝
U-23日本代表 vs U-23サウジアラビア
■悔しくて眠れなかったアジアユースでの敗戦
あの日のことはいまでも鮮明に覚えています。
96年3月24日、決戦の地はマレーシア。準決勝のサウジアラビア戦は、勝てば28年ぶりのオリンピック出場が決まる、まさに絶対に負けられない大一番でした。
僕たちはその日のために4年間、ずっと頑張ってきました。このチームの前身は92年のUAEワールドユース出場を目指していたのですが、その最終予選のアジアユース準決勝で韓国に敗れて世界大会に出られなかったのです。
スタッフもチームメイトもほとんど変わりません。監督は西野(朗)さんで、コーチは(山本)昌邦さんで、僕、テルくん(伊東輝悦)、ハット(服部年宏)あたりが主力として出ていました。
負けてしまった韓国との試合も、本当に死闘でした。その日の夜は、とにかく悔しくて、ずっと眠れなかったのを覚えています。
第1回:1996年アトランタ五輪アジア最終予選 準決勝
U-23日本代表 vs U-23サウジアラビア
■悔しくて眠れなかったアジアユースでの敗戦
あの日のことはいまでも鮮明に覚えています。
96年3月24日、決戦の地はマレーシア。準決勝のサウジアラビア戦は、勝てば28年ぶりのオリンピック出場が決まる、まさに絶対に負けられない大一番でした。
僕たちはその日のために4年間、ずっと頑張ってきました。このチームの前身は92年のUAEワールドユース出場を目指していたのですが、その最終予選のアジアユース準決勝で韓国に敗れて世界大会に出られなかったのです。
スタッフもチームメイトもほとんど変わりません。監督は西野(朗)さんで、コーチは(山本)昌邦さんで、僕、テルくん(伊東輝悦)、ハット(服部年宏)あたりが主力として出ていました。
負けてしまった韓国との試合も、本当に死闘でした。その日の夜は、とにかく悔しくて、ずっと眠れなかったのを覚えています。
■この日のためにすべてを賭けてきた
あの瞬間から、僕たちはずっとアトランタを意識しました。西野さんの気持ちも同じでした。「ワールドユースには出られなかった。オリンピックに切り替えて頑張っていこう!」とずっと言い続けていました。
ワールドユースに出られなかった借りを返したいという気持ち。日本代表チームを28年ぶりのオリンピックへ出場させたいという気持ち。自分たちの力は世界でどれだけ通用するのかというチャレンジしたい気持ち。この3つの気持ちを強く抱きながら戦ってきて、ようやくこの日を迎えたのです。
じつは、僕がプロ入りを決めたのも、この韓国との敗戦がきっかけでした。当時の僕は、プロ選手としての道を進むつもりはなく、大学へ進学して高校教師になって指導者になろうと思っていました。あの悔しさがあったから、いまの川口能活があったと言っても過言ではありません。
自分の決断が間違っていなかったことを証明するうえでも、絶対にオリンピックに出場したかったですし、この日のために、自分のすべてを賭けてきました。
あの瞬間から、僕たちはずっとアトランタを意識しました。西野さんの気持ちも同じでした。「ワールドユースには出られなかった。オリンピックに切り替えて頑張っていこう!」とずっと言い続けていました。
ワールドユースに出られなかった借りを返したいという気持ち。日本代表チームを28年ぶりのオリンピックへ出場させたいという気持ち。自分たちの力は世界でどれだけ通用するのかというチャレンジしたい気持ち。この3つの気持ちを強く抱きながら戦ってきて、ようやくこの日を迎えたのです。
じつは、僕がプロ入りを決めたのも、この韓国との敗戦がきっかけでした。当時の僕は、プロ選手としての道を進むつもりはなく、大学へ進学して高校教師になって指導者になろうと思っていました。あの悔しさがあったから、いまの川口能活があったと言っても過言ではありません。
自分の決断が間違っていなかったことを証明するうえでも、絶対にオリンピックに出場したかったですし、この日のために、自分のすべてを賭けてきました。